大判例

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大阪地方裁判所 昭和52年(行ウ)49号の2 判決

原告

神坂玲子

外六名

原告ら補助参加人

神坂直樹

右原告ら及び補助参加人訴訟代理人弁護士

加島宏

原告中川健二を除く原告ら及び補助参加人訴訟代理人弁護士

熊野勝之

藤田一良

坂和優

小坂井久

川下清

被告

中井武兵衛

右訴訟代理人弁護士

菅生浩三

葛原忠知

笹川俊彦

石川正

塚本宏明

宮崎誠

須知雄造

山上東一郎

国谷史朗

丸山恵司

川本隆司

藤田整治

右訴訟復代理人弁護士

南川博茂

井上進

大砂裕幸

中村成人

村尾勝利

平山博史

主文

一  原告村上淑子、同中川健二の訴えをいずれも却下する。

二  原告神坂玲子、同小西ちよ、同角南喜美代、同古川二郎、同古川佳子の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

以下の事実摘示及び理由説示中の略称は、各該当箇所で注記するほか、次のとおりとする。

一、箕面市=市。社会福祉法人箕面市社会福祉協議会=市社会福祉協議会。箕面市福祉事務所=市福祉事務所。箕面市補助金交付規則(昭和四六年三月三一日箕面市規則第二号)=市補助金交付規則。

二  財団法人日本遺族会=日本遺族会。大阪府遺族会(のちに大阪府遺族連合会と改称)=府遺族会。箕面市戦没者遺族会=市遺族会。箕面地区戦没者遺族会=区遺族会。日本遺族厚生連盟(財団法人日本遺族会の前身)=遺族連盟。右日本遺族会、府遺族会、市遺族会及びその他各都道府県の遺族連合会並びに各市町村の遺族会の総称=各遺族会。

三  別紙物件目録一記載の土地=本件土地。同目録二記載の物件=本件忠魂碑。なお、本件忠魂碑が、本件土地に移設される以前のものを旧忠魂碑という。旧帝国在郷軍人会=在郷軍人会。旧帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会=分会。

四  昭和五一年度箕面地区戦没者慰霊祭=本件慰霊祭。本件慰霊祭を含む本件忠魂碑前で行われていた箕面地区戦没者慰霊祭の総称=碑前慰霊祭。

五  大日本帝國憲法=帝国憲法。「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保證支援保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(昭和二〇年一二月一五日連合国総司令部から日本政府に対する指令)=神道指令。「公葬等について」(昭和二一年一一月一日発宗第五一号内務次官、文部次官通牒)=公葬等について。

六  最高裁判所昭和五二年七月一三日大法廷判決(民集三一巻四号五三三頁)=津最判。

[当事者の申立]

一  原告ら

1  被告は、箕面市に対し、金四四万九七〇四円及びこれに対する昭和五二年七月六日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

(第一次的答弁)

主文同旨

(第二次的答弁)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

[当事者の主張]

第一 請求原因

一  当事者

1  原告らは、いずれも箕面市の住民である。

2  被告は、後記本件補助金交付(支出)及び本件書記事務従事がなされた当時、箕面市の市長であったものである。

3  市遺族会は、市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置している。

二  本件補助金交付(支出)・本件書記事務従事の存在

1  本件補助金の交付・配分

(一)  被告は、箕面市の昭和五一年度の一般会計予算から、市社会福祉協議会に七六一万二〇〇〇円の補助金(以下「市補助金」という。)を交付した(以下、これを「市補助金交付」という。)。

(二)  市社会福祉協議会は市補助金から、市遺族会に四四万五〇〇〇円の補助金(以下「本件補助金」という。)を配分した(以下、これを「本件補助金配分」という。)。

(三)  本件補助金は、形式的・手続的には、市補助金交付・本件補助金配分という流れによって市遺族会に交付されたものであるが、実質的には市の支出当初から市遺族会への配分が予定されていたものであり、その意味で、市から市遺族会への直接の補助金交付と同視しうるものである(以下、前者のような形式的・手続的側面に着目した本件補助金交付の法律関係を「本件補助金交付」といい、後者のような実質的側面に着目した本件補助金交付の法律関係を「本件補助金支出」という。)。

2  本件書記事務従事

(一)  市遺族会は、従来から、市福祉事務所の所員である市の一般職の職員に同会の書記を委嘱し、被告は、同職員が、同会の書記に従事すること及び勤務時間中に同会の事務を処理することを指揮または命令し、その事務に従事した時間についても給与を支給してきた。

(二)  昭和五一年四月一日以降昭和五二年六月三〇日までの右書記事務のうち、後記本件慰霊祭及び昭和五二年度碑前慰霊祭の準備又は執行の補助事務を除いた事務に従事(以下、これを「本件書記事務従事」という。)した時間は、少なくとも一四時間以上である。

(三)  昭和五一年当時の市の一般職の一時間あたりの給与額は、少なくとも三三六円以上であるから、本件書記事務従事につき支給された給与の金額は、少なくとも四七〇四円以上である。

三  市遺族会に対する援助の政教分離原則違反

1  市遺族会の宗教団体性

(一)  日本遺族会と市遺族会との関係

市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、団体としての性格は日本遺族会と同一である。すなわち、日本遺族会は、各都道府県に独立した法人格を持った遺族会を組織し、これを支部としており、また各都道府県遺族会はその支部としての市町村遺族会を組織しているところ、市遺族会の会長は、府遺族会箕面支部の支部長として、当然に府遺族会の評議員となり、また府遺族会で選出された者が日本遺族会の評議員となるなど、これらの組織は、役員構成の面で密接なつながりを有していること、また、現実の活動方針の決定にあたっても、本部たる日本遺族会の決定事項の遂行にあたっては、支部は本部の決定事項に従うことが要請され、支部独自の立場は制約されることなどからすれば、市遺族会、府遺族会、日本遺族会は、全国的に一体の組織であることが明らかであって、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、本部たる日本遺族会とその性格を同じくすることが明らかである。

(二)  日本遺族会の性格、活動

日本遺族会は、以下に述べるとおり、戦没者遺族のうち、公務死と認定された戦没者が靖国神社に神として祀られているという信仰を持つ人々によって構成され、靖国神社の教義に基づき、靖国神社の祭神たる英霊の慰霊・顕彰をすることを目的とし、靖国神社における英霊の祭祀を維持、継続しこれに参加することを主な事業とし、靖国神社に対する内閣総理大臣の公式参拝によって靖国神社信仰に対する国家的支持を公証させ、さらには、靖国神社の国家護持による靖国神社の公営化と靖国神社信仰の国教化を策動し、これの実現に向けて運動している靖国神社崇敬者(信徒)の団体である。

(1) 靖国神社の性格、活動等

靖国神社は、天皇のために戦死した者を、忠死した神霊、すなわち忠霊、忠魂(やがて「英霊」と呼ばれるようになる。)として祀り、それを祭神とする神社であり、その意味で、明治政府によって確立された国家神道の軍国主義的側面を体現する天皇軍の宗教施設として、国家神道の要を構成するものであった。その祭祀の主要なものは、招魂式、霊璽奉安祭、合祀祭、春秋の例大祭等であるが、これら靖国神社の祭祀及び国家神道の教義の背景には、招魂、すなわち、国事殉難者の霊を天から招き降ろして鎮祭するという観念があり、これは、敵味方を問わず、戦争等の死者の怨霊を慰撫、弔う御霊信仰とは異質な、単なる宗教習俗とは異なる、明らかな宗教観念である。なお、戦後、制度としての国家神道は解体したが、右招魂の思想に基づく、宗教としての国家神道は、今も靖国神社の中に生き続けている。その教義を要約すれば、「イ 人間の死後、死者の霊が存在する。ロ 戦争において天皇に忠節を尽して国に殉じた者は、靖国神社の祭神とされる。ハ 戦没者の霊は、靖国神社の合祀の祭において招き降ろされ、祭神として本殿に鎮められる。ニ 英霊は、靖国神社の祭祀において戦死に至るまでの忠節を表彰され、感謝される。英霊は、これを喜び、慰められる。ホ 慰霊祭に参列した者は、英霊の殉国の精神を継承することを英霊の前に誓い、英霊の加護を祈念する。」というものである。

(2) 日本遺族会と靖国神社との関係

日本遺族会は、以下に述べるとおり、右(1)のような靖国神社の教義を信奉し、その信仰の共通性によって成り立っている靖国神社の信徒団体である。

① 敗戦後もなお、靖国神社の伝統と祭祀を支持し、それが国家事業であることを求める一部の戦没者遺族が、同胞援護会や、地方世話部職員の援助によって組織したのが遺族連盟であり、日本遺族会であるところ、靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員たる遺族は、靖国神社の崇敬者(信徒)であるといわざるを得ない。すなわち、靖国神社の規則三条には、同神社の目的として、同神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化、育成するとの規定があるところ、靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員たる遺族は、まさに同神社を信奉する祭神の遺族に該当する。

② 日本遺族会の英霊顕彰事業の実態

日本遺族会の寄付行為によれば、その最重要な活動目的は英霊の顕彰であり、現実の活動方針も、英霊の顕彰を最大の事業としているところ、右英霊の顕彰の具体的内容は、戦没者が靖国神社や護国神社に祭神として祀られていることを前提にした上で、靖国神社及び護国神社の例大祭等への奉仕、毎年の慰霊祭執行、遺族、遺児への靖国神社参拝の組織と世話等、靖国神社等への合祀にはじまり、毎年の例大祭で繰り返される戦没者慰霊の祭祀をますます盛んにし、それゆえにそれを執り行う靖国神社(護国神社)の国家(都道府県)護持を実現することにある。なお、昭和五一年、日本遺族会が中心となり、英霊顕彰、靖国神社等における慰霊顕彰、靖国神社公式参拝実現等を目的事業とする英霊にこたえる会を結成したが、日本遺族会は、その中央本部を引き受け、右事業を推進したものであり、両会は事実上一体の関係にある。

③ その他、日本遺族会主催の慰霊祭と靖国神社の例大祭とは、その祭祀形態、祭文等が、まったく同じであること、日本遺族会は、その成立過程からも靖国神社と密接なつながりがあるのみならず、その後も、日本遺族会の歴代の会長が、靖国神社の責任役員に就任するなど、靖国神社の構成員、機関としても重要な役割を果たしていること、さらに現在、日本遺族会は、みずからを英霊につながる精神団体と規定し、遺族会の趣旨に賛同するものは、戦没者遺族であると否とを問わず、すべて遺族会の会員とすべきであるとしていること等をも合わせ考えれば、日本遺族会が靖国神社の信徒の団体であることは明らかである。

(三)  市遺族会の性格、活動

市遺族会は、以下に述べるとおり、もっぱら宗教的活動たる靖国神社、大阪護国神社、忠魂碑における英霊の顕彰と慰霊の事業を目的とし、また現実の活動としている宗教上の組織または団体である。

(1) 市遺族会の目的、活動

市遺族会の第一の目的は英霊の顕彰であるが、市遺族会は、右英霊顕彰事業の一環として、次の宗教的活動を組織的に常時又は定期に継続して行っている。すなわち、市遺族会の活動は、本件土地上の本件忠魂碑を御霊代として、これに戦没者を英霊として合祀し慰霊祭祀する事業、本件忠魂碑による神式又は仏式の戦没者慰霊祭の例年執行、毎年度の靖国神社への集団参拝の事業、大阪護国神社の毎年春秋例大祭への団体協賛と役員及び会員の集団参拝並びに同大祭への神饌料の奉献を主とするものであるが、これらは、日帰りで行われる秋期バス慰安旅行を除き、いずれも宗教活動であって、かつこれらの活動以外には、みるべき活動がない。

(2) 忠魂碑の宗教施設性

忠魂碑の建碑の目的は、地元出身戦没者の霊を慰め、その事蹟を英霊、忠魂として顕彰し、同時に、戦死者の多くが、直系の子孫のない若者であることから、無縁となることのないようこれを祀ることにあったが、その後、軍国主義、国家神道と結び付き、天皇のために忠義を尽して戦死した者を英霊、忠魂として崇め祀るために建てられた碑との観念が定着し、忠魂を顕彰する記念碑としての性格を持つとともに、靖国神社の祭神である戦没者の霊を祀るという意味で、霊魂の存在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在となった。この意味で、忠魂碑は、「村の靖国」としての性格を持ち、天皇のため死んだ者を神として祀り、またあとに続く者に忠君愛国の精神を鼓舞する国家神道の宗教施設であり、かつ軍国主義教化施設である。

本件忠魂碑もこのような性質を持つ宗教施設であり、その性質は、戦後の今も変わらない。なお、本件忠魂碑が、宗教施設であることは、その移設に際し、脱魂式、入魂式が行われたこと、また、本件忠魂碑には、それ自体、超自然的なものの具象化である神体としての霊璽を内蔵していることからも明らかである。

(3) 碑前慰霊祭の性格

市遺族会は、本件忠魂碑を含む箕面市内の各地区における忠魂碑の維持(護持)と右各忠魂碑前での慰霊祭の挙行による英霊の祭祀の執行を行っている団体であって、右各忠魂碑の前でする戦没者慰霊祭を今後ますます盛んにすることを会の方針とし、また、箕面地区出身の戦没者で靖国神社祭神となっている二九八柱の英霊を本件忠魂碑に合祀し、その前でこれを祭祀する儀式(碑前慰霊祭)を毎年一回定期的に挙行し、右のような祭礼時又は平常時の礼拝若しくは参拝の対象物としているものであるところ、右碑前慰霊祭は、靖国神社に合祀された祭神が同様に祀られていると観念されている忠魂碑前で、忠魂を慰めることを目的として行われるものであって、靖国神社の祭祀と同根同質の、同神社の教義に基づく宗教儀礼である。

(四)  市遺族会の宗教団体性

(1) 憲法八九条前段の解釈

憲法の定める政教分離原則は、帝国憲法下での国家神道体制が招来した宗教弾圧、思想弾圧、軍国主義体制の歴史の深刻な反省の上に立って立法され、信教の自由を保障し民主主義を確立することによって、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさないようにすることを目的としており、そのためにこそ国家と宗教とを完全に分離することを理想として規定されたものであるところ、憲法八九条前段は、右のごとき趣旨を有する政教分離原則を財政面から規定した条項である。したがって、右前段の「宗教上の組織若しくは団体」の解釈としては、宗教団体はもちろんのこと、広く宗教に関係ある事業若しくは活動そのものを指すと解すべきであり、このことは、憲法二〇条一項の「宗教団体」の解釈にもあてはまる。

(2) 市遺族会は、靖国神社崇敬者の団体である日本遺族会の箕面市における支部であり、支部の活動としても、本件忠魂碑の碑前での慰霊祭のほか、靖国神社の参拝、大阪護国神社における英霊合祀への参加とこれの維持(護持)への協力等の活動を行っており、右のような組織及び事業の実態からすれば、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」に該当することは明らかである。

(3) なお、仮に右「宗教上の組織若しくは団体」及び「宗教団体」の解釈につき、「一定の教義を有し、これを布教、宣伝することを目的とする教団、教派、教会等の宗教団体」という最も狭い解釈をとったとしても、市遺族会は、日本遺族会の支部として、靖国神社の祭神に対する信仰を広め、礼拝活動を盛んにし、同神社の社会的地位の向上に務めているという意味で、同神社の宗教を布教宣伝する「宗教上の組織若しくは団体」に該当するし、また右「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」を、それよりゆるやかに「信仰についての一般的な意見の一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合」と解釈すれば、市遺族会に参加している遺族は、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を持っており、同神社の信仰を目的とする団体を構成していることは疑問の余地がないから、結局、市遺族会は、いずれにせよ、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当するといわなければならない。

2  本件各行為と憲法二〇条一項後段、同条三項、八九条前段違反

(一)  憲法二〇条一項後段、同法八九条前段違反

前記のように、市遺族会は、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当するものであるところ、本件補助金支出と本件書記事務従事(以下、これらを「本件各行為」という。)が、右両法条に違反することは以下のとおりである。

(1) 憲法二〇条一項後段違反

本件補助金支出が、憲法二〇条一項後段の特権に入ることは明らかであり、また本件書記事務従事も一般人には認められていない特定人に対する特別の利益の供与であって、特権の付与にあたることは明らかである。なお、その他、市遺族会は、市福祉事務所をその事務所とし、公金を投じて購入された市有地を同会の忠魂碑敷地として無償使用し、同碑前での慰霊祭では、市の人的物的施設を使用し、それに市の幹部職員らが、参拝するなど、平素かつ従前から、市から特別の地位と利益を得ているものであり、その特権性は、顕著で明白である。また、右特権付与は、まさに靖国神社を国教のように取り扱うものであり、この面からも、同条項の趣旨に反する。

(2) 憲法八九条前段違反

本件補助金支出が、憲法八九条前段の禁止する公金の支出にあたることは明らかである。なお、同条は、直接の補助の場合のみならず、特別の団体を設置し、その団体を通じて補助する場合を含むものであるし、本件では、市社会福祉協議会はトンネルであり、実体は、本件補助金は、市の支出当初から、市遺族会への配分を予定していたものである(本件補助金支出)。

本件書記事務従事は、本来、市遺族会がその賃金を支払うべきところ、市がこれを支払ったのであるから、実質的には補助金の支出と同じである。また、右労務は、有償の役務として財産上の利益であり、公の財産であるし、仮にそうでなくても、便益の供与であって、これを宗教上の組織若しくは団体である市遺族会のため、その利用に供することは、憲法八九条前段に違反する。

(二)  憲法二〇条三項違反

本件書記事務従事により、市は、市遺族会の宗教活動たる英霊顕彰事業の事務を担当し、また、本件補助金支出により、その活動費の一部を負担した。これらは、市が、慰霊祭実行組織の一部となってみずから英霊顕彰の宗教的活動をしたことにほかならず、憲法二〇条三項に違反する。

四  本件補助金交付と憲法八九条後段違反、社会福祉事業法五六条一項違反

1  条例の欠缺による憲法八九条後段違反等

(一)  市補助金は、社会福祉事業法五六条一項に基づき、社会福祉法人たる市社会福祉協議会に交付されたものであるが、本件補助金交付当時、市では、同条一項に定める条例を制定しておらず、右補助金交付(市補助金交付)は、市補助金交付規則に基づきなされた。

(二)  社会福祉事業法五六条一項は、憲法八九条後段が禁止した「慈善、教育若しくは博愛の事業」(以下「慈善・博愛事業」という。)に対する助成を条件付きで解除し、国または地方公共団体に社会福祉法人に対する補助金交付の権能を与える規定であるところ、社会福祉事業法五六条一項が、地方公共団体が社会福祉法人に補助金を交付する手続を定める法形式として条例を指定しているのは、それが地方公共団体の基本たる自治規範であること、憲法八九条後段の趣旨からみて、社会福祉法人に対する補助金交付については、通常の場合よりも、一層厳格、慎重な手続を要するという立法者の判断に基づくものであるから、これに違反した市補助金交付は、重大かつ明白な憲法違反の瑕疵があるといわざるを得ず、無効である。

2  間接補助による憲法八九条後段違反等

仮に市遺族会が、社会福祉団体であって、慈善・博愛事業に含まれるとすれば、市社会福祉協議会を通じての本件補助金交付は、間接補助であり、公の支配に属しない慈善・博愛事業に対する財政援助であって、憲法八九条後段に違反する。すなわち、社会福祉事業法五六条二項以下は、間接補助先への監督権限の規定を欠いており、間接補助先の市遺族会に同条二項以下を適用することは不可能であるし、そもそも、同法は、間接補助を全く想定しておらず、憲法八九条後段の公の支配という要件の重要性に鑑み、直接補助に限定していると解される。

したがって、本件補助金支出は、公の支配に属しない団体への補助金支出であり、憲法八九条後段に違反する。

五  本件各行為と地方自治法二三二条の二違反

1  地方自治法二三二条の二は、普通地方公共団体は、公益上の必要があるときは寄付又は補助をすることができる旨を定めているところ、本件補助金支出が右規定の適用を受けるものであることは明らかであり、また本件書記事務従事も、市がその職員を私人の事務に従事させ、その給与を負担するという無償の利益の供与であり、右法条にいう寄付又は補助にあたる。

2  右地方自治法二三二条の二の公益上の必要性の判断は、自由裁量ではなく、客観的に認められることが必要であり、裁判所の事後的な司法審査に服するものであるところ、市遺族会は、以下のように、反憲法的性格、したがって反公益的性格を持つ団体であり、補助の公益上の必要性を欠く。なお、その活動の中には、前記のように宗教上の活動が明白なものもあり、これについては、公益上の必要を論じるまでもなく、補助が許されない。

(一)  日本遺族会の反公益的性格

市遺族会は日本遺族会の支部であるところ、日本遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギー及び国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とするものであり、また、同会は、単に過去の戦没者の慰霊、顕彰を目的としているばかりでなく、英霊に対する応答、英霊に対する誓いという形で、将来の世代による殉国の精神の継承、将来の戦争における戦没者の慰霊、顕彰をも視野に入れ、自衛隊とのきずなを強め、防衛意識、国家意識の向上を説き、防衛力増強等の軍備強化を推進し、さらに英霊をひたすら顕彰することを防衛意識の向上に役立てようとしている。これらは、戦前の決戦思想に奉仕し、いざという場合に、天皇のため忠死していく者を作ろうとする極めて危険な思想である。

このような日本遺族会の主張、思想、観念は、日本国憲法の根本規範に反し、国民主権の否定、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与するものといわなければならない。

(二)  また、本件忠魂碑は、宗教施設であるとともに、絶対君主神権天皇に対する滅私奉公のため勇躍死に赴いたことを賛美する忠君思想を表わし、天皇への忠義に殉じた武勇を公衆に広く顕彰しようとする、全体主義的軍国主義と主権在君の思想を表現し、これを広くかつ永遠に宣布伝承する働きを客観的に持つものであるところ、市遺族会は、本件忠魂碑を祭儀の中心とし、これを平常礼拝し、またこれにより、毎年、慰霊祭を執行するなど、それ自体でも、憲法理念に反する活動を重ねてきたものであり、このような性格を有し、活動を行っている団体は、団体そのものが反憲法的であり、したがって反公益的であると評価せざるをえない。

(三)  よって、このような市遺族会に対する援助である本件各行為は、地方自治法二三二条の二に違反する。

六  本件各行為及び本件補助金交付のその他の違法

1  本件書記事務従事の地方公務員法三五条違反

本件書記事務従事は、地方公共団体の処理すべき事務ではなく、また法律にこのような便宜供与を許容する規定もないのであるから、これを市の職員の職務として、規則上の職制または職務命令により割り当てることができない。それにもかかわらず、本件書記事務従事をなさしめる職務割り当てないし職務命令は、地方公務員法三五条の職務専念義務に違反する違法な行為である。

2  市補助金交付の市補助金交付規則違反

被告は、箕面市長として補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律と同じ趣旨を目的として、市補助金交付規則を定め、これに従い補助金行政を執行しているところ、被告のした市補助金の交付には、以下のとおり、右規則違反(該当条項は括弧内に摘示のとおり)があり、被告がそれを取消し、返還を命じなかったことは、右取消、返還を定めた同規則一五条及び一六条に違反する。

(一)  市補助金交付申請手続の違法

(1) 補助金交付申請書に補助事業の目的及び内容、補助事業の経費の配分、経費の使用方法、補助事業の完了の予定期日その他補助事業遂行に関する計画(同規則四条一項二、三号)がいずれも記載されなかった。

(2) 補助事業の経費のうち、補助金によってまかなわれる部分以外の部分の負担者、負担額及び負担方法(同規則四条二項一号)、補助事業の効果(同規則四条二項二号)を記載した書類の添付がなかった。

(二)  市補助金交付決定手続の違法

(1) 申請手続の適法性、補助事業の目的及び内容が適正であるかどうか、補助事業の経費の配分、経費の使用方法、補助事業の完了の予定期日、その他補助事業の遂行に関する計画の存否とその内容、補助事業の経費のうち補助金によってまかなわれる部分以外の部分の負担者、負担額及び負担方法、補助事業の効果等が適正であるかどうかを審査しなかった(同規則五条一項)。

(2) 交付の決定にあたり、補助事業に要する経費の配分の変更をする場合、補助事業の内容の変更をする場合、補助事業を中止しまたは廃止する場合には、いずれも市長の承認を受けるべきこと、また補助事業が予定の期間に完了しない場合、または補助事業の遂行が困難となった場合に速やかに市長に報告しその指示を受けるべきことの条件を付さなかった(同規則六条一項)。また付すべき条件を市社会福祉協議会に通知しなかった(同規則七条)。

(三)  市補助金の額の確定等の手続の違法

補助事業が完了したとき補助事業の成果を記載した補助事業実績報告書に、市長の定める書類を添えてしなければならない報告を受けず(同規則一二条)、同報告書の書類の審査等をせず、補助事業の成果が補助金の交付の決定の内容及びこれに付した条件に適合するかどうかの調査をせず、同調査結果に基づき適合すると認めて交付すべき補助金の額を確定しこれを市社会福祉協議会に通知することをしなかった(同規則一三条)。

3  本件補助金使用の違法

市遺族会の昭和五一年度の歳入、歳出状況は、別紙市遺族会会計状況一覧表の原告ら主張欄記載のとおりであり、同会は、右一覧表(原告ら主張欄を指す、以下同じ。)の「歳入の部」記載のとおり、本件補助金四四万五〇〇〇円を他の収入とともに歳入総額の一部として受け入れたうえ、これを同一覧表の「歳出の部」記載のとおり使用した。これによれば、本件補助金は、すべての歳出項目の原資として使用されたとみるほかないが、その中には、前記のように宗教活動等の違法な使途があるほか、以下のように、違法な使途、あるいは補助の必要のないものが含まれており、被告は、市補助金交付規則一五条、一六条に従い、その違法な使用を原因として、少なくとも本件配分にかかる補助金の決定を取消し、これを市に返還させるべきところ、右返還命令を怠り、同返還請求権を時効消滅させ、市に損害を与えた。

(一)  分担金・負担金(同一覧表歳出の部の1)に使用した違法性

自己の上部組織やその所属あるいは加盟する団体への会費、分担金、負担金等は、自益的組織費として自己財源でなすべきであり、その使途が公益性を有するとはいえない。また、府遺族会や、日本遺族会への分担金、会費は、中央での政治及び宗教活動費の分担であり、政治連盟入会金は明らかに政治活動費である。また、市社会福祉協議会への会費を、同協議会からの市補助金の配分をもって補助することは無意義である。よって、これらの補助金使用は、いずれも違法である。

(二)  地区活動費の配分(同一覧表歳出の部の2)の違法性

地区配分金の使途について、市の行政当局はこれを把握しておらず、監督せず、また監督しようともせず、その報告を徴することもしていない。このような無統制な補助金の交付、配分、使用、監督はいずれも違法である。

(三)  地区活動費の使用内容の違法性

区遺族会では、地区活動費としての右配分金七万九六〇〇円(同一覧表歳出の部の2の(1))は、本件慰霊祭のための費用に使用されなかった。仮に、同配分金が慰霊祭費用に使用されなかったとすれば、それは蓄積されたことになり、配分の目的に適合しないし、その蓄積された資金の収支及び残高内訳はきわめて不明瞭であり、決算上も確認できない。このような実態しかない地区活動費のために市補助金が使用されることは違法である。

(四)  事業費(同一覧表歳出の部の3)の使用内容の違法性

右事業費のうちの支出項目で宗教上の目的に関しないものはなく、これに補助金をもって充てることはできず、かつ、右以外に活動費を必要とした同会の事業は存在せず、市が補助金を支出してこれを補給する必要のある事業は認められない。

(五)  一般管理費(同一覧表歳出の部の4)使用の違法性

そもそも補助金は、対象事業を前提として対象事業者に対し、その事業費の一部を補給するものであるから、事業費でない一般管理費(会の一般運営事務の経費)は、補助対象となりえない。仮に、その事務を事業の一環ととらえることができるとしても、それはその会議費や交通費の支出にかかる会議や連絡により補助事業の協議執行がなされたことが認められなければならないところ、本件では、そもそも補助対象となるべき事業が認められないのであるから、それの協議執行をすべき一般管理事務も存在せず、よって、一般管理費に本件補助金を使用することも違法である。

(六)  靖国神社参拝基金への繰入れ(同一覧表歳出の部の5)の違法性

本件補助金は、同基金を積み立てることを目的としたものではないから、これに使用することは違法である。

(七)  剰余金(同一覧表歳出の部の6)

剰余金は、収入財源中の不要金を意味する。すなわち、市遺族会の歳出金は、仮にすべてが適法な補助対象経費であったとしても、少なくとも一一万二九八六円は補助の必要がなかった。このほか、地区活動費として配分された歳出金は、各地区において剰余金(箕面地区では二四万八二八〇円)として未使用のまま繰越されたので、やはり剰余金相当額につき、補助の必要がなかった。さらに過去の剰余金の蓄積として、相当額の靖国神社参拝基金があり、これをも合わせ考えると、同年度において、市遺族会の他の経費もこれを補助する必要はなかった。

七  損害の発生

1  市補助金交付による損害

市補助金は、社会福祉事業法五六条一項及び憲法八九条後段あるいは市補助金交付規則に違反して違法に市社会福祉協議会に交付されたものであるから、右交付決定によって、市は、右補助金七六一万二〇〇〇円と同額の損害を被った。本訴において原告らが市に代位して請求しているのは、そのうち市遺族会に配分された四四万五〇〇〇円である。

2  本件補助金支出による損害

本件補助金は、憲法二〇条一項後段、八九条前段、二〇条三項、八九条後段あるいは地方自治法二三二条の二に違反して違法に支出されたものであるから、市は右補助金支出決定によって、本件補助金四四万五〇〇〇円と同額の損害を被った。

3  仮に市補助金交付、本件補助金支出自体が損害でないとしても、被告は、市長として、市補助金交付規則一五条、一六条に従い、その違法な交付・支出あるいは前記のような本件補助金の違法な使用を原因として、本件補助金の支出決定を取消し、これを市に返還させるべきであったにもかかわらず、右返還命令を怠り、右返還請求権を時効消滅させ、市に本件補助金と同額の損害を与えた。

4  本件書記事務従事による損害

(一)  本件書記事務従事により、その労働役務が市の事務以外のものに費消され、または違法な事務に使用されたため、市はその労務の効用たる利益を逸失した。労働役務は、その対価たる給与を超える効用が当然に予定されて、その担い手たる職員が雇用されているものであるから、それを浪費したことによる逸失利益は、少なくともそれに支給された給与以上であり、市は、本件書記事務従事により、これに支給された給与相当額たる、四七〇四円以上の損害を被った。

(二)  本件書記事務従事は、違法な事務ないし職務外の事務への従事であり、市の職員の適法に割り当てられた職務としてなすことのできないものであり、右事務に従事した時間は、その本来の職務に従事しなかったものとして、給与減額の対象とならざるを得ないところ、同時間分についても、減額されることなく給与が支給されたので、市は右減額すべき給与相当額の損害を受けた。なお、仮に、これにより市は受給者たる職員に対し、過払分の給与の返還請求権を取得したとしても、同請求権は、すでに時効消滅したので、市の右損害は確定した。また、仮に右事務に従事した職員が職務命令に従ってこれに従事したとの理由により、右従事時間分の給与請求権を有するものとすれば、市は、本来支払義務を負うべきでない同請求額の支払義務を負担すること自体により、同給与相当額の損害を被ったものである。

八  被告の責任

地方自治法二四二条の二第一項四号の地方公共団体の職員の賠償責任の主観的要件としては、故意または過失で足りると解されるが、仮に、故意または重過失を要するとしても、本件で、被告は、前記各違法性を基礎づける市遺族会の活動実態や、それに対する援助の政教分離原則違反、また、社会福祉事業法五六条の条例欠缺等を知っていたか、あるいは容易に知りうべき立場にあったものであり、被告は、故意または重過失により、市補助金交付あるいは本件補助金支出を行いまたは本件書記事務従事を命じ、市に前記損害を与えたといわなければならない。

九  監査請求

原告らは、昭和五二年四月五日、市の監査委員に対し、前記市が被った損害を補填する措置を講ずるよう請求したところ、同監査委員は、同年六月三日、その理由若しくは必要がないとして、その旨を原告らに通知した。

一〇  住民訴訟の原告適格について

住民訴訟は、公益の擁護を目的とする客観かつ民衆訴訟であり、その当事者適格たる住民の資格は、他の住民意思を反映、代表し、自己の利益にかかわらない公益的性格を有するものであるから、訴訟係属中に住民たる資格を喪失しても、原告適格は失われるものではない。そうでなければ、訴訟係属中は、別訴が禁じられているため、原告が訴訟係属中に住民たる資格を喪失したために訴えを不適法として却下しなければならないとすれば、訴訟参加を行えるのみの他の住民の利益が阻害されるし、また、裁判には期間がなく、長期化するのであるから、この場合、原告転居の故に不適法却下をすると改めて監査請求から始めなければならないが、監査請求の対象となる行為があった日または終わった日から一年が経過することにより原則として監査請求はなしえず(地方自治法二四二条二項)、ひいては住民訴訟も提起しえず、住民訴訟の権利はまったく否定されてしまうという極めて不合理な結果を招来する。

したがって、原告村上淑子、同中川健二は、市から転出したとしても、依然、原告適格を有するものである。

一一  よって、原告らは、被告に対し、地方自治法二四二条の二第一項四号の規定に基づき、市に代位して、被告に対し、本件補助金交付(支出)による損害四四万五〇〇〇円及び本件書記事務従事による損害四七〇四円の合計四四万九七〇四円及びこれに対する昭和五二年七月二日付準備書面送達の日の後である同月六日から支払済まで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

一二  なお、原告らの市遺族会の宗教団体性と反公益的性格及び本件各行為の違憲性に関する主張の詳細は、別紙一のとおりである。

第二 本案前の答弁の理由

地方自治法二四二条の二に基づく住民訴訟においては、原告が弁論終結時まで、当該地方公共団体の住民であることがその適法要件であるが、原告村上淑子、同中川健二は、既に箕面市から転出しているから、右原告らの訴えは不適法である。

第三 請求原因に対する認否

一1  請求原因一の1の事実中、原告村上淑子、同中川健二が箕面市の住民であることは否認するが、その余の事実は認める。

2  同一の2、3の事実は認める。

二  同二の事実について

1  同二の1の(一)、(二)の事実は認める。

2  同二の2の(一)、(三)の事実は認めるが、同二の2の(二)の事実は否認する。

三  同三の事実について

1  同三の1の主張について

(一)  同三の1の(一)の事実は否認し、その主張は争う。

市遺族会は、日本遺族会や遺族連合会とは全く別個の組織であり、独自の財源と機関で運営されているものである。

(二)  同三の1の(二)の事実は否認し、その主張は争う。

日本遺族会を含む各遺族会は、その目的、事業内容からして、戦没者遺族の福祉増進及び相互扶助というもっぱら世俗的な目的を有し、これを具体化する事業に従事してきたものであり、沿革、組織からしても、信仰の一致した者によって組織されたものではなく、かつ、特定の宗教に関する宗教活動を行ったことも行う予定もなく、宗教上の組織、団体にあたらない。また、日本遺族会の行っている英霊顕彰事業は、その全体の事業のごく一部であるうえ、その大半は、靖国神社とは関係のない戦没者慰霊行事であるところ、戦没者慰霊行事は、宗教団体に限らず、政府等によっても行われる世俗的行為である。

(三)  同三の1の(三)の事実は否認し、その主張は争う。

(1) 市遺族会は、日本遺族会と一体となり宗教事業ないし運動を行ったことはない。市遺族会は、箕面市に居住する戦傷病者遺族等援護法二四条等に定める戦没者遺族及びこれに準ずる者(戦没者が靖国神社に合祀されているかどうかは問うところではない。)を会員として組織された団体である。その目的は、箕面市戦没者遺族会則三条に定める会員の慰問激励と、その厚生の方法を講じ、もって遺族の福祉向上に資することであり、同会則四条に定める事業を行うことにしている。現に市遺族会が行っているのは、遺族の慰藉激励、遺族の処遇改善の推進、政府主宰全国戦没者追悼式参列、戦跡慰霊巡拝参加、戦没者遺骨収集参加、大阪府主催戦没者追悼式参列等の案内、申込み取りまとめ、市主催戦没者追悼式参列、戦傷病者戦没者遺族等援護法の遺族に対する周知徹底、遺族の実態調査、生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導等の事業である。市遺族会は、かような事業を行って、遺族援護行政に協力し、これを補完しているのである。このように、市遺族会の活動の実態も遺族の福祉増進及び相互扶助に関する事業であって、その性格は世俗的なものである。

(2) 遺族が、戦没者を慰霊し、顕彰する行事を行うのは、当然かつ極めて自然なことであり、慰霊行事を行うから宗教上の組織、団体というのはおかしいし、戦没者碑の前で行われる慰霊祭は、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念の式典であり、その本質は、習俗化した社会倫理の儀礼的表出であり、宗教的な儀式の執行も、演出効果を高める副次的要素にすぎないのであるから、このような慰霊祭を挙行することをもって、市遺族会を宗教上の組織若しくは団体ということはできない。なお、碑前慰霊祭は、民間団体である市遺族会の下部組織である区遺族会が挙行したものであり、市遺族会自体は、前記のとおり宗教上の組織でも団体でもない。したがって、右慰霊祭への市の関与行為を目して、市が宗教活動をしたり、宗教上の組織若しくは団体に財政的援助をしたということはできない。

(3) いわゆる忠魂碑は、明治一〇年ころから、全国的に、特定の宗教、宗派のいかんにかかわりなく、人間の自然の心情の発露である死者の追悼・慰霊の観念に基づき、戦没者を記念するために、戦没者出身地の有志により建設されはじめたものである。旧忠魂碑は、分会が、大正五年ころ箕面村出身の戦没者を追悼・慰霊し、記念するため建立したもので、一般の忠魂碑と別段異なるところはなく、この意味において、忠魂碑(本件忠魂碑を含む。)は、政府、地方公共団体、都道府県遺族会等が、戦後、沖縄、南方諸島等に建設した戦没者慰霊碑等となんら異なるところはない。分会の会員は、予備役、後備役等であり、成人男子のほぼ全員が一度はその構成員となるものであった。旧忠魂碑も、右のような民間有志によって建立された死者に対する追悼・慰霊のための記念碑であるというべきである。原告らは、本件忠魂碑を忠霊塔と混同しているものであり、本件忠魂碑は、地域出身の戦没者を追悼・記念するための記念施設にすぎない。政府は、当時、右のような忠魂碑の建設に対しては消極的な態度をとり、むしろこれを制限、抑制しようとさえした。ところが、昭和一四年七月七日、陸軍を推進母体とし、当時の首相を名誉会長とする大日本忠霊顕彰会が発足し、忠霊顕彰のため、一市町村一基の忠霊塔建設を計画した。右忠霊塔は、靖国神社の祭神の遺骨を安置して永遠に祀り、七生報国の精神の昂揚を期するものであって、忠魂碑とは著しくその性格を異にする。本件忠魂碑前で、宗教儀式を伴う慰霊祭が行われることは、本件忠魂碑の宗教施設性を基礎づけるものではない。すなわち、塔、碑、像等の前で特定の宗教、宗派の宗教儀式を伴う死没者慰霊行事が行われていても、それら塔、碑、像等をもって、宗教施設といわないのが、社会一般の通念である。なお、民間団体が主催し、地方公共団体が助成し、公務員が参列する行事として、広島市平和記念公園内原爆供養塔前での原爆死没者供養行事(毎年八月六日に教派神道、神社庁、キリスト教両派及び仏教がそれぞれ宗教儀式を主宰)等があるが、これら塔、碑、像等も宗教施設と考えられていない。また、本件忠魂碑に内蔵されているのは、戦没者の俗名を記した霊爾であり、靖国神社の祭神たる霊璽ではない。

(四)  同三の1の(四)の主張は争う。

なお、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」は、「信仰についての一般的な一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合」と解すべきである。

2  同三の2の主張は争う。

仮に、本件各行為が、宗教とかかわり合いをもつものと評価される点があるとしても、市遺族会の性格、実態は、原告ら主張のようなものでないこと、これらの関与行為は、市が遺族援護行政の一環として行ったものであり、決して、特定の宗教を援助、助長するような行為ではないこと、この程度の関与は、全国多数の地方公共団体においてもなされていること、その関与の程度においても社会通念上相当と認められる範囲にとどまるものであり、その効果において特定の宗教を援助、助長、促進又は他の宗教に圧迫、干渉を加えたりするものではないこと、以上を総合すると、右各関与行為は、わが国の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を逸脱して宗教活動にかかわったものとはいえない。すなわち、前記各関与行為は、それ自体何ら宗教的意義をもつものではなく、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉等になるような行為でもない。市は、本件各行為を遺族援護施策ないし福祉施策の一つとしてなしたものである。

四  同四の主張について

1  同四の1の主張は争う。

市において、本件補助金交付当時、社会福祉事業法五六条一項に定める条例が存在していなかったことは認めるが、それにより、本件補助金交付が無効であるとの主張は争う。右条例は、地方公共団体が、社会福祉法人に対して、補助、助成をするについての手続を定める条例に過ぎず、同法五六条一項の規定は訓示的規定であり、右手続上の瑕疵は、補助金交付の実体的効果に影響を及ぼさない。また、市では、昭和五一年当時、右条例の内容を実質的に取り入れた市補助金交付規則が存在し、本件補助金交付は、右規則に従ってなされたものであり、実質的にも違法性はない。なお、元来、普通地方公共団体は、公益上必要がある場合には、地方自治法二三二条の二に基づき、直接、補助金の交付をなしうるものであるところ、本件で、市遺族会への補助金交付が右公益上の必要性を満たすことは後記のとおりである。

2  同四の2の主張は争う。

「公の支配」は、国または地方公共団体が直接に補助、助成する社会福祉法人に対する関係で確保されていれば足りる。

五  同五の主張は争う。

遺族援護行政は、国民的合意に基づくものであり、また国会決議等の正式な手続により、国の重要な施策として行われてきたものであり、地方公共団体が、地域の遺族に対し、地域の特性に応じた遺族援護の施策をとることも、当然必要性と公益性が認められるものである。

六1  同六の1の主張は争う。

2  同六2の事実のうち、被告が市補助金交付規則を定め、それに基づき補助金行政を執行していることは認めるが、市補助金交付が右規則に反するとの主張は争う。

3  同六の3の事実は否認し、その主張は争う。

なお、市遺族会の昭和五一年四月一日から昭和五二年三月三一日までの会計状況は、別紙市遺族会会計状況一覧表の被告主張欄記載のとおりである。また、原告は、靖国神社参拝基金への繰入れの違法性を主張するが、そもそも市遺族会において特に右名称の基金を設け、特定の趣旨目的を持った特別の資金をプールしている訳ではなく、折りに触れ、会員各位から受けた寄付金を、一般会計に組入れる場合の組入れ科目の名称として使用しているにすぎない。

七  同七の主張は争う。

八  同八の主張は争う。

仮に、被告の本件各行為が違憲・違法であるとしても、地方自治法二四二条の二第一項四号による損害賠償責任については、故意または重過失が責任要件と解されるが、被告には、右各行為が違憲・違法であることにつき、故意、重過失はない。すなわち、戦没者遺族に対して、相応の援護措置を講ずることは、国の責務として行うべき施策であり、被告が、地方公共団体においても国の場合と同様に、地域の実情に応じた遺族援護措置をとりうると考えることは当然である。また、遺族会に対する補助金の交付は、ほとんどの地方公共団体で行われているうえ、箕面市における遺族会への補助金の交付は、被告が市長となる以前から連綿として行われていたから、被告が、その前例を踏襲して、条例のないまま、遺族会に補助金を交付したものも無理からぬところである。なお、従前、地方公共団体の遺族会に対する補助金の交付が違法とされた実例がないことも考慮されなければならない。

九  同九の事実は認める。

一〇  同一〇の主張は争う。

一一  なお、被告の市遺族会の性格及び本件各行為の合憲性、適法性に関する主張の詳細は、別紙二のとおりである。

第四 証拠〈省略〉

理由

以下の理由説示中、書証の成立(写しについては原本の存在を含む。)については、争いのないものはその旨の記載を省略し、争いのあるものはその成立(写しについては原本の存在を含む。)を認めうる証拠を括弧内に表示する(なお、括弧内に「原本」とあるは、写しを原本として提出された証書である。)。

第一本件訴えの適法性

一原告適格

1 原告らの本訴請求は、地方自治法二四二条の二の規定に基づく住民訴訟であるところ、住民訴訟は、地方公共団体の執行機関又は職員による同法二四二条一項所定の一定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実が当該地方公共団体の構成員たる住民全体の利益を害することに鑑み、これを防止ないし是正するため、法律をもって住民に対して右違法な行為又は怠る事実の予防ないし是正を裁判所に請求する公法上の権限が付与されているものであるから、住民訴訟の原告は、訴え提起時だけでなく、訴訟係属中も当該地方公共団体の住民たる資格を要すると解され、訴訟係属中に、住民の資格を失った場合には、原告適格を欠くに至るというべきである。

2 原告らは、住民訴訟が公益の擁護を目的とするいわゆる客観訴訟、民衆訴訟であることから、訴訟係属中に住民たる資格を喪失しても原告適格は失われない旨主張するが、地方自治法二四二条の二の規定に基づく住民訴訟は、公益的性格を有するとはいっても、住民に訴え提起の義務が課されているわけではなく、訴えを提起すると否とは住民各自の自由な判断に任されており、その取下についても、他の住民の同意を必要とする等の制約はないなど、制度的、手続的にみれば、通常の民事訴訟と特に異なる面はなく、原告適格に関する民事訴訟の原則を排除する特段の規定もないことに加え、住民訴訟が、もっぱら、特定の自治体の自治権の範囲内に関する訴訟であるところから、同じく民衆訴訟であっても国家的法益に属する選挙の公正を目的とする選挙訴訟とは同一に論ずることができないことなどを考慮すると、住民訴訟が、客観訴訟、民衆訴訟であるということから、住民訴訟の原告適格について、通常の民事訴訟と異なる解釈に立ち、原告が住民であることが本案判決の要件ではないと解することは困難であるといわなければならない。

3 原告村上淑子、同中川健二を除く原告らが箕面市の住民であることは当事者間に争いがないが、被告の昭和六二年七月一四日付上申書添付の住民票によれば、原告村上淑子、同中川健二は、本訴訟の口頭弁論終結前に、箕面市から転出し、その住民たる資格を喪失していることが明らかであるから、右原告らの本件訴えは、いずれも不適法として、これを却下すべきものである。

二監査請求の経由

原告らが、請求原因九のとおり、市の監査委員に対し、監査請求をなし、同監査委員が右各請求に理由若しくは必要がないと判断したことは当事者間に争いがなく、したがって本件各訴えは、監査請求の手続を経由したものというべきである。

第二本訴請求について

一当事者

被告は、本件補助金交付(支出)及び本件書記事務従事がなされた当時、箕面市長であったこと、市遺族会が、箕面市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置していることは当事者間に争いがない。

二市補助金交付・本件補助金配分と本件書記事務従事の存在及びその事実関係

1  市補助金交付・本件補助金配分の存在とその事実関係

(一) 市補助金交付・本件補助金配分の存在

被告が、市の昭和五一年度一般会計予算から、市社会福祉協議会に七六一万二〇〇〇円の補助金を交付したこと(市補助金交付)、市社会福祉協議会が、右補助金から市遺族会に四四万五〇〇〇円の補助金を配分したこと(本件補助金配分)は、当事者間に争いがない。

(二) 市補助金交付の事実関係

〈証拠〉を総合すれば、市補助金交付について、以下の事実が認められる。

(1) 昭和五一年当時、市の予算編成は、前年の一〇月初めからスタートし、市補助金は、箕面市福祉事務所によって予算要求書として具体化するが、それは前年の実績、事業内容、物価上昇率等を勘案してその額が決定されていたもので、右予算要求は、企画部等の各担当者の予算査定を経て、市長等の査定を経由し、一般会計予算に組み込まれ、三月の定例市議会の議決により予算として成立していた。

(2) 市社会福祉協議会は、昭和五一年六月一日(受付は同月四日)、市福祉事務所を通じて、市に対し、同年度の補助金として七六一万二〇〇〇円の交付申請をした。右申請書の添付書類は、以下のとおりである。

イ 昭和五〇年度事業活動報告書

ロ 同年度一般会計及び各種特別会計決算書・精算書

ハ 市社会福祉協議会什器・備品目録、同貸借対照表

ニ 監査結果報告書

ホ 昭和五一年度事業計画書

ヘ 同年度一般会計及び各種特別会計予算書

ト 同年度各種福祉団体に対する市補助金配分表

なお、右トの各種福祉団体に対する市補助金配分表には、市遺族会を含む市社会福祉協議会への加盟一六団体(及び市社会福祉協議会並びに同協議会の運営する心配ごと相談所)に対する昭和四三年度から昭和五〇年度までの市補助金の配分実績及び昭和五一年度における市補助金の配分予定額が記載されており、同協議会への補助金交付に際し、市は、市補助金が、同協議会を通じて、同協議会加盟のいかなる団体に、いかなる金額、割合で配分されるのかを知りうるようになっていた。

(3) 被告は、箕面市長として、昭和五一年六月一六日、右補助金(市補助金)交付を決定し、同月一七日、その支出命令を発した。右支出命令書によれば、右補助金は市の同年の予算中、一般会計の(款)民生費、(項)社会福祉費、(目)社会福祉総務費、(節)負担金補助及び交付金、(種別)補助金として支出されている。

(4) 市社会福祉協議会は、社会福祉事業法に基づく社会福祉法人であり、それに対する市補助金の交付は、同法五六条一項に基づくものであるところ、同条項は、国又は地方公共団体は、必要があると認めるときは、省令又は当該地方公共団体の条例で定める手続に従い、社会福祉法人に対し、補助金を支出することができる旨を規定しているが、市補助金交付当時、市では、同法に基づく条例は制定しておらず、市補助金交付規則及び市補助金交付要綱によって、本件補助金を交付したものである。

(三) 本件補助金配分の事実関係

〈証拠〉によれば、本件補助金配分について、以下の事実が認められる。

(1) 市社会福祉協議会の歳入源としては、昭和五一年当時、財産収入(基本財産及び運用財産からのもの)、寄付金(一般寄付金及び指定寄付金)、補助金(大阪社会福祉協議会からのものと市からのもの)及び事業収入(受託事業収入からのもの)、会費収入等があったが、市社会福祉協議会では、そのうちの市からの補助金については、それを市社会福祉協議会の一般運営費及び同会で行っている心配ごと相談所の運営費や、福祉活動専門員設置費等にあてるほか、その約半額を、その会員となっている団体(以下「加盟団体」という。)へ配分していたものであり、昭和五一年度における市遺族会への配分額は、四四万五〇〇〇円であった(右市遺族会への配分額は当事者間に争いがない。)。なお、同年度における箕面市からの市社会福祉協議会への補助金総額は、七六一万二〇〇〇円であり、うち、各加盟団体への配分総額は、三四二万四〇〇〇円であって、当時の同協議会への加盟団体は、「民生委員協議会」、「母子福祉会」、「身体障害者福祉会」、「肢体不自由児父母の会」、「手をつなぐ親の会」、「老人クラブ連合会」、「保護司会」、「更生保護婦人会」、「BBS会」、「赤十字奉仕団」、「原爆被害者の会」、「更生保護協会」、「献血推進協議会」、「青少年赤十字団」、「傷痍軍人会」と市遺族会の一六団体であった。

(2) 市社会福祉協議会は、市からの補助金の加盟団体への交付、配分額を決めるについて、毎年四月ころ、各加盟団体の長を集め、それに市の福祉部社会課社会係の職員も出席のうえ、「福祉団体長会議」を主催していた。右会議の主要な案件は、市補助金の配分と、社会福祉協議会助成金の配分であるが、その招集通知書には、あらかじめ用意された、各加盟団体(市社会福祉協議会及び同協議会の営む心配ごと相談所を含む。)へのその年度の市補助金の配分案が添付されている。なお、市社会福祉協議会は、市からの補助金以外にも、前記のようなその独自収入の一部を、各加盟団体に補助金、助成金として交付しているところ(右独自収入からの昭和五一年度の市遺族会への補助金は、五万円であり、助成金は、四万五〇〇〇円である。)、市社会福祉協議会から各加盟団体に交付される金員について、市からの補助金に基づくものと、それ以外の財源に基づくものとは明確に区別されている。

(3) その後、市社会福祉協議会は、右会議で決定した額に基づき、前記(二)の(2)のとおり、同協議会への各加盟団体に対する補助金配分表を添付して、市に市補助金の交付申請をし、また、右各加盟団体は、市社会福祉協議会へ補助金交付申請をして、補助金の配分を受けることになる。なお、右各加盟団体から同協議会への補助金交付申請書の表題には、「昭和五一年度箕面市補助金の交付申請 昭和五一年度箕面市から(社会福祉協議会に)対する補助金について、下記のとおり、交付方申請します。」と記され、下記として、「1 申請金額、2 添付書類 (1) 昭和五〇年度事業報告書及び歳入歳出決算書 各一部、(2) 昭和五一年度事業計画書及び歳入歳出予算書 各一部」と記されており、申請にあたっては、これらの書類を添付するようになっていた。

(4) 以上のような市から市社会福祉協議会に対する市補助金交付と市社会福祉協議会から各加盟団体に対する右補助金配分の審査、決定手続の過程において、市は、市から同協議会に交付した補助金の相当部分が同協議会を通じてその各加盟団体に配分されること及びその配分金額、割合等を知りうる仕組みになっていたものであって、市は、本件の市補助金七六一万二〇〇〇円のうち三四二万四〇〇〇円については、当初から同協議会の各加盟団体に配分されることを予定し、また、うち、本件補助金四四万五〇〇〇円については、市遺族会へ配分されることを予定してこれを市社会福祉協議会に交付したとみられるが、市から右各団体に直接補助金を交付することなく、このように市社会福祉協議会を通じ、間接的に補助金を交付する方法をとるのは、同協議会に加盟する各受交付団体の意向をできる限り反映させることによって右各団体に対する補助金の合理的配分を期する目的に出たものである。なお、大阪府下の二四の市(大阪市は入っていない。)の各市遺族会への補助金交付状況は、原則的に直接交付している市が、一七であり、原則的に社会福祉協議会を通じて交付している市が七である。

2  本件書記事務従事の存在とその事実関係

(一) 本件書記事務従事の存在

市遺族会が、市福祉事務所の所員である市の一般職の職員に同会の書記を委嘱し、被告は、同職員が同会の書記に従事すること及び勤務時間中に同会の事務を処理する(本件書記事務従事)ことを指揮または命令し、その事務に従事した時間についても給与を支給したこと、昭和五一年当時の市の一般職の一時間あたりの給与額は、少なくとも三三六円以上であることは当事者間に争いがなく、また、乙第二六号証(原本)によれば、本件書記事務従事の時間は、同年四月一日から昭和五二年六月三〇日までの間、少なくとも一四時間以上(一か月につき一時間以上)であることが認められる。

(二) 本件書記事務従事の事実関係

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) 市では、昭和五一年当時、市の市民福祉部の中に福祉事務所を設置していたものであり、右福祉事務所設置条例施行規則二条二項には、福祉事務所の社会福祉係の分掌する事務として「社会福祉団体に関すること」との規定があるところ、市では、市遺族会を他の一三の団体(それは概ね前記市社会福祉協議会の加盟団体と同じであるが、前記加盟団体のうち、「身体障害者福祉会」、「肢体不自由児父母の会」、「手をつなぐ親の会」は、福祉事務所で事務を扱う社会福祉団体の中には入っておらず、また、逆に「傷痍軍人妻の会」は、加盟団体には入っていないが、福祉事務所で社会福祉団体としてその事務を扱っている。)とともに、社会福祉団体と位置づけ、右分掌事務規定に基づき、それに関する事務を行っていたものである。

(2) 昭和五一年当時の市福祉事務所の職員数は、三名であり、受け持つ社会福祉団体は、一四であって、一人の職員で、四つくらいの団体の事務手続をしていた。うち、市遺族会関係の事務としては、遺族年金、公務扶助、特別給付金等の申請、国や府が行う戦跡巡拝、遺骨収集、戦没者追悼式の参加者の選定、戦死の事務手続の手伝い等の、国あるいは府との関係における遺族援護事務や、公的行事に関する事務のほか、市遺族会の各会員らに対する、慰問品配布の手伝いや、また、市遺族会の行う各種慰霊、追悼行事や親睦行事に関する通知、案内、すなわち、本件慰霊祭や靖国神社参拝旅行の通知、案内文書の作成、発送等の事務も行っていた(なお、その他に、市福祉事務所の職員が市遺族会の関係で従事していた仕事には、本件慰霊祭及び昭和五二年度碑前慰霊祭関係の会場設営の準備その他の事務、手伝いがあったが、右各慰霊祭関係の業務は本件書記事務従事として、原告が主張する中には含まれていない。)。

(3) 右市遺族会の各種行事の通知、案内にあたっては、昭和五一年当時、市福祉事務所では、市遺族会に代わってこれらの文書をすべて作成し、その保管する市遺族会の会員の名簿と過去帳に基づいて、それを同会の各会員あるいは役員に郵送していたものであり、右郵送にあたっては、市の封筒を用い、切手代も市が負担していた。その他、市遺族会の決算等についても、決算書の原稿は、市遺族会の方で作っていたが、それを正式な形にまとめ、清書するのは、福祉事務所の方で行っていた。

3  市補助金交付・本件補助金配分(本件補助金交付)と本件補助金支出との関係

(一)  原告らが本件の補助金交付に関する違憲・違法事由として主張するところは、多岐にわたるが、その中には、本件補助金を含む市補助金が、市から市社会福祉協議会に交付され(市補助金交付)、さらに市遺族会へ配分された(本件補助金配分)という補助金交付の形式的・手続的側面に着目した主張(本件補助金交付)と、市補助金のうち、本件補助金は、当初から市遺族会への配分を予定されており、その意味で、市から市遺族会への直接交付と同視しうるという補助金交付の実質的側面に着目した主張(本件補助金支出)の両者が含まれている。すなわち、①請求原因三の1・2の憲法二〇条、八九条前段違反等の主張、②同四の2の間接補助による憲法八九条後段違反の主張、③同五の地方自治法二三二条の二違反の主張は、いずれも後者を前提としての主張であるし、④同四の1の社会福祉事業法五六条一項に定める条例の欠缺による違法の主張、⑤同六の2の補助金交付規則違反の主張は、いずれも前者を前提としての主張であり、また、⑥同六の3の本件補助金使用の違法の主張は、必ずしも明確ではないが、一応、後者の面に着目した主張と解される。

(二)  そこで、これらの主張相互の関係について検討するに、本件補助金につき、その形式的・手続的側面をとらえて、市補助金が市社会福祉協議会に交付され、そこから本件補助金が市遺族会に配分されたとする主張(本件補助金交付)と、右実質的側面に着目して、本件補助金は、当初から市遺族会への配分を予定され、その意味で、市から市遺族会への直接の補助金交付と同視しうる(本件補助金支出)という主張とは、本来、法律的観点が相反するものであり、並列的に両立しうる関係にはないと考えられる。すなわち、法律的にみた場合、市補助金中の本件補助金に相当する部分が、市から市社会福祉協議会に交付されたと同時に市から市遺族会にも交付されたとはいえないことは明らかであって、本件補助金につき、その形式的・手続的側面を踏まえて、市から市社会福祉協議会に交付され、そこから市遺族会に配分されたとする以上、問題となるのは、市から同協議会への補助金交付の手続的・実体的適法性のみであり、同協議会から市遺族会への補助金の配分は、市以外の第三者の行為であって、右配分の違法性について、市長たる被告にその責任を問うことはできないといわざるを得ない。また、逆に、本件補助金支出につき、市から市遺族会に直接交付されたとみる以上、問題となるのは、そのような直接の補助金支出の手続的・実体的適法性のみであり、たとえその中間に市社会福祉協議会が介在していたとしても、右直接の補助金支出が手続的・実体的に適法になされたとみられる以上、市社会福祉協議会への交付に関する瑕疵は直接には、右補助金支出の適法性及び効力に影響を及ぼさないといわざるを得ない。

したがって、本件の補助金をめぐる法律関係につき、右のような形式的・手続的側面に着目する以上、争点は、もっぱら市社会福祉協議会への市補助金交付の適法性であり、市遺族会の宗教団体性や、市遺族会に対する補助の公益上の必要性は検討するまでもないこととなるし、逆に、右のような実質的側面に着目する以上、争点は、市遺族会への本件補助金支出の適法性に尽きるのであって、市社会福祉協議会への市補助金交付についての手続的瑕疵は、本件補助金支出の適法性及び効力に影響を及ぼさないことになる。

(三)  ところで、前記1認定の市補助金交付、本件補助金配分に関する事実関係に照らせば、市補助金のうち本件補助金に相当する部分は、形式的・手続的には、市から一旦市社会福祉協議会に交付され、同協議会から市遺族会に配分されたものではあるが、当初から、市において、市遺族会へ配分されることを予定して支出されたもので、市が補助金交付につき市と受交付団体との中間に市社会福祉協議会を介在させたのは、単に、市が一定の総額を定めて予算化する補助金を各種団体に対して合理的に配分するための手段とする趣旨に出たものにすぎないと認められるから、本件補助金は、実質的にみて、市から市遺族会に直接交付されたものとみるのが実態に合うというべきであって、本訴における原告らの主張も、その最も中心となる点は、このような補助金交付の実質的側面に着目したうえ、それが政教分離原則に違反するというものであり、それに対する被告の主張も、本件補助金交付の実質的法律関係を前提とした上で、それが政教分離原則に違反せず、手続的・実体的にも適法であるとするものであり、このような双方の主張をも考慮すれば、本件補助金に関する法律関係については、その実質的側面を重視し、市から市遺族会に直接交付されたものと評価、判断した上で(本件補助金支出)、その手続的・実質的適法性を検討すべきものであり、以下、このような観点から、原告ら主張の本件補助金支出及び本件書記事務従事(本件各行為)の違憲・違法事由について検討を加えることとする。

三本件各行為の政教分離原則違反の主張について

原告らは、市遺族会は、宗教団体である日本遺族会と一体の組織であるうえ、それ自体においても、宗教的活動を行っている団体であり、憲法二〇条一項後段の「宗教団体」、同法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」に該当するし、市は、本件各行為によって、みずから本件慰霊祭等、市遺族会の英霊顕彰の宗教的活動をしたことになり、憲法二〇条三項に違反する旨主張するので、以下この点につき検討する。

1  日本遺族会と市遺族会との関係

原告らは、市遺族会は、日本遺族会と一体の組織であることを前提に、市遺族会は、宗教団体たる日本遺族会の一地方支部として宗教団体にあたる旨主張するので、まず右両会のつながりについて検討するに、〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。

(一) 各遺族会の組織には、全国単位のものとして財団法人日本遺族会(日本遺族会)があるが、そのほか、各都道府県にも法人格(大分県の場合は社会福祉法人、その他の都道府県の場合は財団法人)を持った遺族連合会等があり(大阪府の場合には大阪府遺族会、のちに大阪府遺族連合会と改称)、さらに各市町村単位にも遺族会が存在する(大阪市の場合には、大阪市の各区、府下の各都市及び各郡単位に遺族会が存在する。)が、これらの組織のうち、実際に会員を有する組織体は、各市町村の遺族会のみであり、日本遺族会及び各都道府県の遺族連合会には、独自の会員というものはない。ただ、全国の各市町村遺族会の徴収した会費の一部は、各都道府県の遺族連合会や、日本遺族会に納入されており、これらの会費が、右各遺族会の運営資金の一部になっている。なお、日本遺族会では、各都道府県遺族会を日本遺族会からみて支部としており、また、府遺族会(各都道府県の遺族連合会も同様と考えられる。)では、その傘下の各市町村遺族会をさらにその支部としており、市遺族会の会則上、市遺族会の会長は府遺族会箕面支部長を兼ねることが定められている。

(二) 日本遺族会の最高議決機関は、評議員会であり、評議員会において執行機関である理事会の構成員である理事を選任し、かつ会長、副会長を指名するが、右評議員は、府遺族会はじめ各都道府県単位の遺族会で選出された者等から構成されている。また、府遺族会の場合も通常の業務決定・執行機関は理事会であるが(寄付行為の変更等の重要事項については評議員会で決する。)、右理事会の構成員たる理事や同会の会長は評議員会で選出されるものであり、評議員は、府下市町村遺族会の会長らから構成されている(なお、このような関係は、他の都道府県の場合も基本的に同様であると考えられる。)。

(三) 日本遺族会は、その決定した事業方針、活動目標等を全国の各都道府県遺族会、さらに各市町村遺族会に伝達しているところ、各都道府県及び市町村遺族会においては、それぞれの立場、地域特性に応じた活動をしているものの、日本遺族会の決定した事業の基本方針については、これに従うことが要求され、支部(各都道府県遺族会)として、それと異なる独自の立場をとることは制約される。なお、日本遺族会は、昭和三五年に、英霊の顕彰事業推進のため、その内部に基本問題調査部を設置し、その結果を英霊精神に関する報告書という文書にまとめたが、右調査部会において、遺族会のあり方を考える場合に、特に留意すべき事項として、話し合われた事項として、「(1) 遺族会の本部、各支部は協力して戦没者遺族の物心両面の安定を期するため、靖国神社の国家護持の実現(地方の護国神社の都道府県による護持の実現)及び戦没者遺族の処遇改善につとめること。(2) 遺族会の本部、各支部は、遺族会の目的が下部に浸透徹底するよう努力し、その組織の整備強化をはかること。」という点が挙げられている。また、日本遺族会は、昭和四六年七月、今後の長期ビジョンの確立、組織の改革案等について検討するため、同会内部に特別委員会を設置し、そこでとりまとめた「新体制確立特別委員会報告書」のうち、「日本遺族会の今後のあり方」(以下、右報告書のこの部分を「新体制報告書」という。)については、同年一〇月の理事会、評議員会で承認し、会の今後の方針として決定したが、右報告書においては、遺族会の存立の基礎は、各市町村における組織であり、遺族のよりどころとして遺族会の全国組織を支えているのはこの単位組織であること、各都道府県遺族会及び日本遺族会の機能と役割は、この基盤のうえに、いかに遺族一人一人の問題をくみとり集約し、方向付け、会員を結集して問題の解決を図るかにあること並びに遺族会の各都道府県支部は、その独立性の面と、日本遺族会の支部としての両面を持っており、右各支部は、本部の決定に基づき、都道府県の立場でその遂行にあたり、また都道府県の立場で独自の活動を行うこと、なお、本部決定事項の遂行については、支部はあくまで支部としての立場であり、独自の立場は制約されるものであり、支部の特殊事情のために決定事項が実行されなかったり、実行への熱意を欠くことは是認しがたいことが指摘されている。

以上の事実が認められ、これらの事実によると、日本遺族会と各都道府県遺族連合会及び各市町村遺族会は、本部・支部という組織的つながりを持った団体であり、役員構成の面でも密接なつながりを有するうえ、その事業活動の面でも、遺族会全体としての基本的な活動方針、事業目的等の面では、本部たる日本遺族会の決定に従うことが要求されていることが明らかであり、これらの諸事実からすると、日本遺族会、各都道府県遺族連合会及び市遺族会を含む各市町村遺族会は、全体として一体の組織であって、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部といわざるを得ず、その意味で、市遺族会は、基本的に、日本遺族会と同一の性格を有する団体であると認められる。

2  日本遺族会の性格、活動状況等

(一) 日本遺族会の発足の経緯及び遺族連盟の活動状況

〈証拠〉に歴史上公知の事実を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) 昭和二〇年八月一五日の敗戦に伴い、日本の社会は、物心両面で著しい混乱状況に置かれたが、その中でも、戦没者遺族特に戦争未亡人及び未成熟の子供らの多数は、甚だしい生活の困窮状態に置かれ、その日の生活にも事欠くような事態に陥り、しかもその数は全国で相当多数に達していたが、当時は、政府自体も体制の変革期に伴う混乱状態にあったこと、さらに日本を占領していた連合国総司令部は、戦前の日本の軍人階級に対する優遇措置とくに軍人恩給が日本の軍国主義を助長した大きな要因であるとの認識に立ち、社会的困窮者に対する公的援助の必要性は認めながらも、それが軍人階級とその遺族に対する優遇措置という形ではなされるべきでないという考えであったうえ、戦没者遺族の団体が結成されることは軍国主義の復活につながるのではないかとの懸念を持っていたことなどから、これら遺族らの困窮状態に対し、政府は、なんら有効な公的扶助等の措置をとりえず、また戦没者遺族の自主的な組織結成も困難な状況にあった。また、昭和二一年一一月一日には、「公葬等について」の通牒が発せられ、地方公共団体は、公葬その他宗教的儀式及び行事等(慰霊祭、追悼式)は、その対象のいかんを問わず挙行してはならないとされ、さらに民間団体が行う戦没者の葬儀、慰霊祭等に対し、地方公共団体が、これを援助しその名において敬弔の意を表明することも禁止された。

(2) そのような中で、一部の戦争未亡人が、社会的に似たような境遇にある遺族らの連帯と相互扶助を呼びかける趣旨で、第一次世界大戦後世界に流行した「幸運の葉書」を真似た形式で、「七人の遺族に呼びかける団結の葉書」を昭和二〇年一〇月に各地に発送し、それが相当の反響を得たこと、さらに、昭和二一年二月にNHKの「私達の言葉」が、武蔵野母子寮長牧野修二の、全国に向かって戦争犠牲者遺家族同盟の組織と戦争犠牲者救援会の結成を呼びかけた投稿をそのまま全国放送したことなどがきっかけになり、戦争犠牲者遺族の全国組織結成の気運が生まれ、右武蔵野母子寮に同年三月以来、戦争犠牲者遺族同盟結成準備会の事務所が設けられて、それを戦前の組織である恩賜財団軍人援護会の新組織である同胞援護会(総裁高松宮殿下)が支援し、同年六月、右戦争犠牲者遺族同盟の結成大会が開かれ、その後、同胞援護会を通じての各都道府県への連絡等がなされて、昭和二二年五月、右同盟の第二回地方代表者会議が開かれた。また、それとは別に、同年六月には、「全国平和連盟東京都本部」と称する会名で、各都道府県の遺族会や、都道府県の関係部課に参集を呼びかけ、同年七月準備会が開催され、このような動きの中で次第に戦没者遺族の全国的組織結成の気運が高まり、最終的に、右全国平和連盟東京都本部が母体となった形で、同年一一月一七日、日本遺族厚生連盟(遺族連盟)が発足した。

(3) その後、遺族連盟が、発展的に解消して、昭和二八年三月一一日、財団法人日本遺族会が発足した。財団法人化を進めた主たる理由は、国から旧軍人会館(現九段会館)の無償貸付を受ける関係で、法人化が必要となったことが大きい。右旧軍人会館は、在郷軍人会によって、九段に建てられていたものであるが、昭和二八年八月に「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」が公布され、日本遺族会に無償貸与されることになった。右法律の一条では、日本遺族会が、「(途中略)もとの軍人・軍属で公務により死亡した者の遺族の福祉を目的とする事業の用に供するときは、遺族会(日本遺族会を指す。以下同じ。)に対し、その建物及び国有財産たる別表第二の土地(別表略)のうち、その建物の使用に必要な部分を他の法令の規定にかかわらず、無償で貸付けることができる。」と規定されており、また、その二条一項では、「遺族会は、前条の規定により貸付を受けた財産を左に掲げる事業以外の事業の用に供してはならない。一、遺族に無料又は低額な料金で宿泊所を利用させる事業。二、遺族に無料又は低額な料金で集会所、食堂、理容室、洗濯所等の施設を利用させる事業。三、遺族に生活必需品を実費で販売する事業。四、無料又は低額な料金で遺族の生活及び結婚に関する相談に応ずる事業。五、遺族の育英を行う事業。六、その他遺族の福祉を目的として行う事業で厚生大臣の指定するもの。」と規定されている。

(4) 遺族連盟の活動は、もっぱら遺族の経済的困窮の改善に向けられていたが、その遺族援護に関する各種活動の大きな成果としては、国会で次第に遺族の問題が取り上げられるようになり、昭和二七年四月三〇日戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立するに至ったことが挙げられる。また、遺族連盟ではかねてから戦没者の慰霊行事等は一般文民と同様の扱いをすることとの要望もしていたが、その運動の成果として、昭和二六年には、戦没者葬儀等に対する公務員等の出席等に関する通牒が一部変更された。なお、遺族連盟時代の昭和二七年に、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することの決議がなされているところ、これが日本遺族会の靖国神社国家護持運動の出発点となった。

(二) 日本遺族会の寄付行為・組織

〈証拠〉によれば、昭和二八年三月に発足した日本遺族会の当初の寄付行為は、「第二条 この会は戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くとともに、道義の昂揚、品性の涵養に務め、平和日本の建設に貢献することを目的とする、第三条 この会は前条の目的を達成するために次の事業を行う。一、遺族の生活相談事業、二、上京遺族の宿泊所の斡旋、皇居の清掃、拝観その他国会見学等の連絡指導、三、遺族の表彰その他連絡指導、四、機関紙の発行、五、その他目的達成のため必要と認める事業」というものであったが、同年一一月に一部改正がなされ、「第二条 この会は、英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進(〜以下改正前に同じ。)、第三条 この会は〜(前同)一、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、二、遺族の処遇向上に関する事業、三、遺族の生活相談事業、四、遺児の育成、補導、五、上京遺族の宿泊所の斡旋、皇居の清掃拝観その他連絡、指導、六、遺族の表彰その他連絡指導、七、機関紙の発行、八、その他目的達成のため必要と認める事業」というようになり、以後、細部の改正はあるものの、会の目的としては、基本的に右のような内容のものになっている。

なお、日本遺族会と各支部との組織関係は前記1のとおりであるところ、日本遺族会の傘下の単位遺族会(支部)の数は、昭和五三年当時で、一万四〇〇支部である。また、日本遺族会では、その傘下の単位遺族会の会員資格については、特に寄付行為等で、統一的な規定を置いていないが、旧軍人・軍属あるいはこれに準ずるものの遺族ということが当然の前提になっていると解される(なお、遺族連盟は、その規約第三条において、「本連盟は戦争犠牲者及び社会公共の為の殉職者の遺族を会員とした団体を以て組織する。」との規定を置いていたが、右規定は、日本遺族会の寄付行為には引き継がれていない。)。また、右のような日本遺族会(傘下の単位遺族会、以下同じ。)の会員資格を有すると考えられる遺族世帯のうち、同会に加入しているものの割合については、正確な数値は不明であるが、同会の発表によれば、同会への会費納入世帯は、昭和五三年の調査で、右の全遺族世帯数一八五万世帯のうち一〇四万世帯であるとされている(以下、このような、日本遺族会の傘下の単位遺族会への会費納入者及びその家族を「日本遺族会の会員」という。)。

(三) 日本遺族会の事業の概要

〈証拠〉を総合すれば、日本遺族会の事業の概要(但し、靖国神社国家護持運動等については、後記(五)のとおり)として、以下の事実が認められる。

(1) 日本遺族会は、その機関紙として日本遺族通信(以下「遺族通信」という。)を毎月二回発行しているところ、右通信は、その発行時点における日本遺族会の活動方針、運営状況を反映した記事を掲載しているものであるが、右遺族通信の標語(題字の下)が、一六一号(昭和三九年五月一日号)から、それまでの「われわれは遺族の相互扶助、慰藉救済の道を開き道義の昂揚、品性の涵養に務め、平和日本建設にまい進すると共に、戦争防止、ひいては世界恒久平和の確立を期し以て全人類の福祉に貢献することを目的とする。」から、「日本遺族会は、英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くと共に、道義の昂揚、品性の涵養に務め、平和日本の建設に貢献することを目的とする。」と変わっており、日本遺族会が、このころから英霊の顕彰事業ということに力を入れ始めた様子が窺われる。また、昭和四〇年代に入ってくると、遺族通信には、靖国神社関係とくにその国家護持関係の記事が多く、かつ紙面の中心的記事として扱われるようになってくると同時に、遺骨収集、戦跡巡拝等の記事も次第に増えてきて、英霊の顕彰と言う点が、遺骨収集や戦跡巡拝等とともに、次第に遺族会の中心的な運動方針になってきたという感じは否めない。このような傾向を端的に表わしているのが、昭和四六年に遺族通信に発表された前記新体制報告書であり、ここでは遺族会という組織の性質上、先細りの危惧を「英霊につながる精神団体」として活路を見出す方針をはっきり打ち出し、「英霊につながるものはすべて遺族である。」とまで述べられ、戦没者の肉親という遺族概念をも放棄するかのような姿勢が打ち出されている。もっとも、現実にその後、このような形の遺族概念に立って、日本遺族会の運営がなされているとは認めがたく、同会の会員資格としては、依然、戦没者遺族であることが要件のようである。

なお、昭和五六年三月一五日付の遺族通信に掲載された同年度の日本遺族会の活動方針、事業計画をみると、活動方針の大綱としては、「1 英霊顕彰の推進、2 戦没者遺族の福祉増進、3 組織強化と財政基盤の確立」が挙げられ、また事業計画としては、「1 靖国神社国家護持の推進、2 戦没者遺族の処遇改善、3 戦没者遺骨収集と戦跡巡拝の実施、4 組織強化対策の推進、5 支部事務局の強化、6 その他の事業」が挙げられている。

(2) また、日本遺族会発行の「日本遺族会の歩みとその概要」―昭和五五年一〇月発行―によって、日本遺族会が対外的に明らかにしている最近の活動状況は、以下のようなものである。

イ 英霊顕彰の事業―靖国神社国家護持の推進、各種英霊顕彰事業の実施

ロ 戦没者遺族の福祉増進に関する事業(戦没者遺族に支給されている恩給等の増額をはじめ、国家処遇の改善を図るとともに、本会が各支部を通じて行う遺族援護の強化対策事業、老人福祉対策事業などを行う。)

ハ 遺骨収集事業―海外における遺骨収集事業について、政府の行う事業に対して、民間団体として団員を派遣して協力している。

ニ 戦跡巡拝の実施―本会主催により外地戦域において、戦没された英霊の慰霊巡拝事業

ホ 機関紙の発行―本会の機関紙である日本遺族会通信を毎月発行している。昭和五五年三月の発行部数は、約一八万部である。

ヘ 奨学資金、福祉基金の貸付―本会資金によって、戦没者遺児に対する奨学資金の貸付及び遺族に対する福祉基金の貸付を行っている(奨学資金については遺児の在学者がなくなり、現在の貸付はない。)。

ト 婦人部活動―約四〇万人の戦没者の妻による婦人部が結成されており、活動を続けている。

チ 青年部活動―戦没者遺児による青年部が結成されており、登録制度により部費徴収して独自の活動を続けている。昭和五五年三月現在の登録者は、七万二〇〇〇人である。

リ 九段会館の経営―九段会館を経営し、遺族の利用に供するとともに、その事業収益によって、遺族の福祉増進をはかっている。

ヌ その他関連事業

(3) なお、日本遺族会の昭和五七、五八年度の会計の種別及びその収支決算状況の概要は、以下のとおりである。

日本遺族会の右両年度の会計は、一般会計、処遇改善特別会計、奨学金等特別会計、青壮年部特別会計、福祉事業特別会計、創立三五周年記念事業特別会計(これは昭和五八年度はない。)、戦没者遺児記念館調査特別会計に分かれているところ、右一般会計の歳入は、主として、支部寄付金と基本財産の利子収入及び九段会館特別会計からの繰入れからなっており、その歳入金額は、昭和五七年度で約一億七一〇〇万円、昭和五八年度で約一億一五〇〇万円であって、そのうち、いわゆる英霊顕彰の費用(戦没者追悼式関係費用及び外地戦跡巡拝費用を含む。)としては、歳出中の事業費の中から、昭和五七年度で、四一三万六八二一円(うち祭祀費は一八万九〇〇〇円)、昭和五八年度で三八七万一一五一円(うち祭祀費は一六万円)が支出されている。もっとも、後記のように、「英霊にこたえる会」は、実質的に日本遺族会と一体となって英霊顕彰活動を行っている組織であるところ、右両年度とも、処遇改善特別会計から「英霊にこたえる会」分担金として各一〇〇万円が支出されている。

このようにみると、英霊の顕彰ということ自体の費用としては、歳出に占める割合が少ないが、ただ靖国神社国家護持、公式参拝等の運動に関する経費は、これら英霊顕彰の費用としてではなく、むしろ日本遺族会の日常の活動の費用すなわち一般会計中の事務費、会議費、組織対策費、研修費等あるいは処遇改善特別会計中の陳情費、会議費、渉外費等(「英霊にこたえる会」の分担金が処遇改善特別会計に含まれていることからすれば、靖国神社国家護持、公式参拝関係の運動費も右会計で処理されている可能性が大きい。)として計上、処理されているとみられるが、その具体的な金額は確定しがたい。なお前記のように、日本遺族会の機関紙である遺族通信なども、最近ではもっぱら靖国神社公式参拝等に関する記事が多いが、右遺族通信の発行、配布費用等は福祉事業特別会計から支出されており、右福祉事業会計は、必ずしも文字通りの福祉事業に関する支出のみではない。

(4) 日本遺族会は、毎年、政府の予算編成に際し、戦没者遺族の処遇改善に関する要望書を提出しているが、その昭和五六年度から昭和五九年度の要望書によれば、最近の右要望事項の大綱は、1、公務扶助料、遺族年金の増額、2、特別弔慰金の継続・増額、3、遺族処遇の不合理是正及び福祉対策の強化、4、戦没者遺児記念館(仮称)建設の促進、5、遺骨収集、戦跡慰霊巡拝事業の拡充強化並びに慰霊碑の建立、6、全国戦没者追悼式国費参加者の増員等が挙げられている。また、そのほかの日本遺族会の最近の運動としては、恩給受給資格の拡大、原爆被害者、一般被災者らの処遇改善問題への取り組みのほか、中国残留孤児への援助も行い、また、日本遺族会が主体となっての戦争資料館(平和祈念総合センター)建設構想なども打ち出されている。

(四) 日本遺族会の英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業

〈証拠〉によれば、日本遺族会の英霊顕彰事業並びに慰霊に関する事業の具体的内容の概要は、以下のとおりであることが認められる。

(1) 日本遺族会の英霊顕彰事業の概要

日本遺族会の英霊顕彰事業の内容は、昭和三七年ころまでは、靖国神社の春秋の大祭、臨時大祭等に奉仕をすること、その各都道府県支部において、それぞれ護国神社において、毎年慰霊祭を執行し、また、遺族団及び遺児の靖国神社参拝の世話をすることなどが中心であったが、昭和四六年ころからは、そもそも英霊の顕彰の意義は、「1、国家存立の基本たる道義確立をめざす、2、英霊にこたえ、真の平和国家の実現と世界平和をめざす、3、民族の歴史、伝統を重んじ民族本来の精神の覚醒をめざす」ことにあるとされ、その具体的内容としては、靖国神社国家護持の推進、護国神社・慰霊塔・旧陸海軍墓地などの維持・奉賛、各種慰霊行事の奉賛、外地遺骨収集の完全実施(政府事業への協力)及び慰霊塔の建立の推進、靖国神社団体参拝・戦跡巡拝の実施、戦没者の遺影・遺品などの収集、遺書などの記録保管と公開、戦没者叙勲の完全実施、「戦没者慰霊の日」制定運動等が挙げられ、それが英霊の顕彰事業の内容としてほぼ定着したとみられる。なお、のちに右「戦没者慰霊の日」は、「英霊の日」となり、また昭和五一年ころ以降は、英霊顕彰事業の内容として、「英霊にこたえる会」とともに、靖国神社に対する閣僚らの公式参拝実現をめざすこともこれに付け加わっている。

(2) 日本遺族会の慰霊に関する事業

前記のように、日本遺族会は、靖国神社の春秋の大祭、臨時大祭に奉賛等するほか、戦争終結後二〇周年あるいは三〇周年等のときには、靖国神社において、その主催で慰霊祭を挙行しているが、右二〇周年のとき(昭和四〇年一〇月)の祭式は、修祓の後、海山の幸を神前に献じ、斎主である靖国神社宮司の祝詞奏上、日本遺族会会長の祭文奏上が行われ、次いで来賓が玉串を奉奠し、遺族代表らを含む参列者が昇殿参拝するというものであり、また、三〇周年のとき(昭和五〇年一一月)の祭式は、日本遺族会会長が祭文を奏上、特別奉迎者の昇殿と右会長の玉串奉奠にあわせて拝礼、続いて各都道府県の遺族代表の昇殿参拝という形であった。

(五) 日本遺族会と靖国神社との関係

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。

(1) 前記のように、日本遺族会の前身である遺族連盟は、昭和二二年一一月発足したものであるが、その結成にあたっては、当時靖国神社の嘱託であった大谷藤之助が各地方を巡歴して、遺族の組織結成の勧奨をし、また、同人は、同月一七日の遺族連盟の創立総会にも出席して、参加者に静岡県遺族会長長島銀蔵(元貴族院議員)を紹介するなどし、結局、右長島が、初代の連盟の理事長になった。また、昭和二八年の日本遺族会の発足当時の一二名の理事の中に、靖国神社の初代代表役員である宮司(宮司は靖国神社の最高責任者であり、規則で代表役員が宮司になるとされている。)の筑波藤麿が入っており、逆に、靖国神社が、前記のように、戦後法人組織になってからの最初の責任役員(当時四名)のうちの一人が、遺族連盟の理事である館哲二(のちに日本遺族会副会長となる。)であり、その後も、日本遺族会の歴代の会長は大体靖国神社の責任役員に就任するなど、日本遺族会は、その発足の当初から、靖国神社と密接な関係を保ち、日本遺族会の前身である遺族連盟は、昭和二七年一一月、その第四回大会で、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することを決議し、政府と国会に要望書を提出し、これが靖国神社国家護持運動の出発点となった。

(2) 日本遺族会の発足後、靖国神社の支援、協力組織として、昭和二八年一一月に靖国神社奉賛会が発足し、その常務理事には、日本遺族会の初代会長である高橋龍太郎が就任し、また全国四七都道府県の各遺族会会長は、自動的に右奉賛会の理事となることとされたが、右奉賛会が実質的にどこまで活動したかは明らかでない。その後、昭和三一年ころから、日本遺族会では、靖国神社法案の草案の検討を開始するとともに毎年、全国戦没者遺族大会等で、靖国神社の国家護持に関する決議を繰り返し、その署名運動などをしていたが、昭和三八年には、その内部に「靖国神社国家護持に関する委員会」を設置し、その調査研究の結果を発表し、さらに、昭和三九年、「靖国神社国家護持に関する調査会」を設置し、そこで作成された「靖国神社国家護持に関する調査会報告書」に基づき、遺家族議員協議会の荒船清十郎議員を通じて、衆議院法制局に靖国神社法案の要綱作成を依頼し、昭和四一年五月、三浦衆議院法制局長の私案の形で、「戦没者等顕彰事業団(仮称)法案要綱」を得たが、右要綱は、靖国神社の宗教色を排除する趣旨のものであったため、日本遺族会や靖国神社側からの強い不満の声が挙がり、最終的には、当時の根本自民党政調会長の私案という形で、その一条を、「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表わすため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事等を行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする。」とする法案がまとまり、昭和四四年六月、第六一国会に靖国神社法案として提出された。

(3) 前記の靖国神社法案は、国会に提出されたものの、結局、廃案となり、その後、右法案は、昭和四五年以降昭和四九年まで毎年提出されたが、可決されるに至らず、また、客観的な諸情勢からも、右法律の成立がただちには期待できない状況にあったことなどから、日本遺族会では、昭和五〇年の理事会で、靖国神社問題が一般国民からやや浮き上がった感じを与えていることは否めない事実であるとの情勢分析に立った上で、基本的には靖国神社国家護持の基本目的を堅持し、靖国神社法案の成立を目標としながらも、あわせて段階的前進についても考慮し、諸般の情勢に鑑み、新たに全国民的な英霊顕彰組織の結成を推進し、国民的運動の展開を期するとの運動方針を審議・決定し、右新組織は、同年中に発足させることを目標とし、そのための実行委員会を設置し、関係団体等とも協議して、具体案の策定にあたることになった。

(4) このように日本遺族会が中心となり、その他靖国神社国家護持を目指す諸団体もそこに結集して、昭和五一年六月二二日、「英霊にこたえる会」の結成大会が開かれた。同会の会則によれば、その事業目的は、「一、英霊顕彰及び英霊にこたえる各種啓蒙宣伝活動、二、靖国神社等における戦没者の慰霊顕彰行事、三、靖国神社における公式参拝の実現、四、「英霊の日」制定運動、五、戦没者遺骨収集に対する積極的協力、六、その他本会の目的達成のため必要な事業」とされている。なお、「英霊にこたえる会」中央本部の副会長は、日本遺族会副会長の浦野匡彦であり、また、市遺族会の会長であり府遺族会の評議員でもある東山伊造は、「英霊にこたえる会」大阪府本部の理事であって、「英霊にこたえる会」の中央本部の事務局の住所は、東京都千代田区九段の日本遺族会気付けであり、またその地方本部の住所も大半は、各都道府県の遺族会の事務局の住所と同一である。また、日本遺族会の昭和五六年度の事業計画の筆頭には、靖国神社の国家護持の推進が掲げられているが、その具体的な運動としては、「1、靖国神社国家護持の方途を研究する。2、八月一五日を目途に公式参拝実現のため英霊にこたえる会とともに全国的規模の運動を実施する。3、公式参拝実現のため地方議会の請願決議の促進を徹底する。4、英霊の日実現のための運動を推進する。5、その他英霊顕彰のための施策を企画実施する。」とされており、「英霊にこたえる会」との協力関係がうたわれている。

3  市遺族会の性格、活動状況等

(一) 市遺族会の組織

市遺族会が、箕面市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置していることは当事者間に争いがなく、甲第七〇号証及び弁論の全趣旨によれば、その設立時期は、昭和二七年ころであり、また、その現在の会員数は、約五〇〇名であることが認められる。

(二) 市遺族会の目的

(1) 甲第六七号証に弁論の全趣旨を総合すれば、昭和五一年当時の市遺族会の会則(甲第六七号証)には、同会の目的は、「会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資するをもって目的とする。」(同会則三条)ことにあり、右目的を達成するための事業活動として、「1、遺族の実態調査、2、生活、職業その他厚生福祉に関する研究指導、3、講習会、講演会、慰安会等の開催、4、関係当局に対する意見具申及び情報提供、5、靖国神社参拝に関する事項、6、その他必要な事項」(同会則四条)が挙げられていることが認められる。

(2) もっとも乙第四八号証の一(弁論の全趣旨)によれば、市遺族会の会則(乙第四八号証の一)には、前記四条の事業活動の5項が、前記(1)の「靖国神社参拝に関する事項」ではなく、「上京旅行に関する事項」となっており、また、二七条の二の規定が、前記(1)の会則(甲第六七号証)では、「書記は社会課(抹消のうえに福祉事務所と記載)職員中から会長が委嘱する」となっているのに対し、「書記は会長が指名する。」となっているものがあることが認められるが、甲第二〇、第三三、第三四、第四二号証によれば、少なくとも昭和五〇年一二月ころまでは、市遺族会から各評議員宛の右旅行に関する案内文書は、「靖国神社参拝について」という表題になっており、市遺族会の役員会の開催通知書、報告書等でも同様の表現が使われていたことが認められるうえ、右の二つの会則中の相違点は、いずれも本件訴訟でその違法性が問題とされている事項に関するものであることなどからすれば、後者の会則(乙第四八号証の一)は、本訴提起後に一部改正がなされた後のものと推認され、結局、本件各行為の行われた昭和五一年当時の市遺族会の会則は、前記(1)の会則(甲第六七号証)であると認めるのが相当である。

(三) 市遺族会の事業、活動の実態

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) 市遺族会の年間の主要な行事、事業活動等

昭和五一年度の市遺族会の総会資料(乙第九二号証)に示された、同年度の市遺族会の事業活動計画案は、「市内各地区慰霊祭参列、箕面市戦没者遺族会理事会、箕面市戦没者遺族会総会、大阪府遺族会主催による春季遺族上京旅行参加、大阪府主催による戦没者追悼式典参列、全国戦没者追悼式典参列、大阪護国神社秋季大祭参加、大阪府遺族会主催による秋季遺族上京旅行参加、箕面市主催による戦没者追悼式典参列、戦没者遺家族に対する年末慰問品配布、箕面市戦没者遺族会靖国神社参拝旅行」となっており、これらは、同総会資料に記載されている昭和五〇年度の市遺族会の事業活動報告と全く同一であって、これらに国あるいは大阪府主催の戦跡巡拝への参加や、大阪護国神社の春季大祭参加、また、四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛(なお、その「英霊お盆大祭」は、府遺族会が四天王寺と共催)、さらに市遺族会青年部による靖国神社参拝研修等を加えたものが、市遺族会の昭和五一年当時の主要な年間行事であった。なお、右「市内各地区慰霊祭」とは、前記市遺族会の四地区でそれぞれ行われる慰霊祭(箕面地区のものが、本件忠魂碑前での慰霊祭)であり、形式上は、各地区遺族会が主催し、市遺族会(の本部)は、これに参列するという形になっているが、右各地区は、市遺族会の内部組織にすぎず、それも市遺族会自体の主催とみざるを得ないことは後記のとおりである。また、「大阪府遺族会主催による春季遺族上京旅行」とは、千鳥が淵戦没者墓苑の参拝等を主たる目的とするものである。

右のような行事のほかの市遺族会の日常的な事業活動としては、右各慰霊祭や大阪護国神社の大祭並びに右各旅行の案内、参加者のとりまとめ、国、府等主催の戦没者追悼式典及び戦跡巡拝についての、参加の案内及びその出席者の銓衡、とりまとめ、府による各遺族への年末慰問品や、大阪護国神社の神社暦の配布の手伝い、戦没者遺族実態調査表(府)の配布の手伝い等や、本件忠魂碑の維持、管理があり、ほかに、遺族援護等に関する法律の改正があったときには遺族会の会議でその周知徹底を図ることも行われていた。

(2) 市遺族会の歳出状況

次に、市遺族会の歳出面から、その事業活動を検討すると、本件補助金が交付された昭和五一年度の歳入歳出決算報告書(乙第一二七号証)及び同年度の市遺族会の金銭出納帳(乙第七六号証の一ないし三)によれば、同年度の市遺族会の歳入・歳出状況の内訳は、別紙市遺族会会計状況一覧表の原告主張欄記載のとおりであり、その決算状況は、ほぼ同一覧表の被告主張欄記載のとおり(なお、右決算報告書では、歳出中の雑費が、二万五〇九〇円となっているが、右は、右一覧表の被告主張欄記載のとおり、三万五〇九〇円であると認められる。)であって、右両者の対応関係は、同一覧表の「両者主張の対比」欄記載のとおりであるが、右歳出の概要を摘記すれば、以下のとおりである。

① 活動費 二〇万五二二二円

イ 会議費 一九万一三八二円

総会、理事会、評議員会の費用である。なお、昭和五一年度の総会は、奈良若草山でするなどしたため、実質的には懇親会的な費用が含まれていると思われる。なお、会則二一条に、総会及び臨時総会は評議員をもってこれにあてるとの規定があり、総会とはいっても実質は評議員会である。

ロ 旅費 一万三八四〇円

具体的な明細は不明である。

② 事業費 七二万七九九六円

イ 神社仏閣参拝費

三五万九二四二円

秋季慰安旅行(府遺族会の主催と思われる。)の負担金及び靖国神社参拝旅行の費用である。

ロ 負担金 一万八〇〇〇円

府遺族会分担金、市社会福祉協議会年会費及び四天王寺の英霊堂護持会費である。

ハ 弔費 六万二一〇〇円

死亡遺族の香料代及び各地区慰霊祭の供花料・樒代である。

ニ 青年部活動費 二万九六四円

日本遺族会青年部会費、青年部壮行費及び青年部会議費である。

ホ 地区活動費 一八万二六〇〇円

市内四地区の活動費として各地区に交付される分である。

ヘ 青年部靖国神社参拝研修費

五万円

具体的な内容は不明である。

ト 雑費 三万五〇九〇円

大阪護国神社春秋例大祭饌料、護国神社暦初穂料、日本遺族会政治連盟入会金、府遺族会ブロック会議費用、事務用品費及び広告料である。

③ 基金会計へ戻入れ 五万円

基金会計については後記のとおり

④ 次年度繰越 一一万二九八六円

⑤ 以上の歳出合計

一〇九万六二〇四円

ちなみに同年度の歳入の概要を摘記すれば、次のとおりである。

① 会費 三三万九〇〇円

会員からの会費収入である。

② 市からの補助金

四四万五〇〇〇円

本件補助金である。

③ 市社会福祉協議会からの補助金及び助成金 九万五〇〇〇円

④ 利益配分金 三万二六三六円

府遺族会の経営する住之江会館の利益配分金である。

⑤ 雑収入 七万五八九四円

寄付金、お供え収入、篤志献金、府遺族会からの旅費支給、旅行費還元、利息収入、銀行預金利息等である。

⑥ 基金会計から繰入れ 五万円

基金会計については後記のとおり

⑦ 繰越金 六万六七七四円

前年度繰越金である。

⑧ 以上の歳入合計

一〇九万九二〇四円

なお、右「基金会計」なるものの性格、それを設けた趣旨を明らかにする証拠はないが、前記金銭出納帳に「基金会計から繰入れ(靖国参拝)」等と記されていることなどからすれば、市遺族会に対する会員等からの寄付金を一時そのような名称の基金としてプールしておき、必要に応じて、それを市遺族会の会計ことに靖国神社参拝関係の費用等に補填することとして、会計処理に柔軟性を持たせようとしたのではないかと考えられるが、客観的にこれを明らかにする資料は見当たらない。

また、本件慰霊祭関係の費用は、上記歳出中の地区活動費一八万二六〇〇円中の箕面地区への配分金七万九六〇〇円(その算出根拠は、会員数二九八人×二〇〇円+二万円)から支出されている。

(四) 本件忠魂碑について

前記(三)認定のように、市遺族会は、本件忠魂碑前で慰霊祭を挙行(碑前慰霊祭)しているほか、日常、同碑を維持、管理しているので、市遺族会の性格を判断する前提として、本件忠魂碑の歴史及びその現況について以下に検討する。

(1) 本件忠魂碑の歴史

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。

① 旧忠魂碑は、大正五年四月ころ、帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会(分会)が、西南戦争、日清、日露戦争の戦没者を追悼するため、建てたものであり、その敷地は、分会が、箕面村に対し、当時、村役場敷地内の不用地であった大阪府豊能郡箕面村大字牧落字山の鼻五〇七番の二(一反三畝一〇歩)のうち四九坪の無償貸与を申入れ、村において、村議会の議決を経たうえ、右土地を無償かつ無期限で貸付けたものである。

② 敗戦後、後記のような神道指令及びそれを受けた「公葬等について」及び「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」の通牒が出され、それに伴い旧忠魂碑は、昭和二二年三月、その碑石部分だけがとりはずされて、忠魂碑の前の敷地部分に埋められ、基台部分は、そのままの状態で放置された。右撤去費用を負担したのは箕面村であったようである。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、占領軍が箕面村から引き揚げを始めた後の昭和二六年五、六月ころ、右碑石は、掘り出され、旧忠魂碑が元通り再建された。右再建の主体は必ずしも明らかでない。

③ その後、区遺族会の会員が旧忠魂碑を清掃管理し、市遺族会の支部たる区遺族会が昭和三〇年ころから右碑前で、慰霊祭を原則として年一回開催していたが、旧忠魂碑の建っていた役場用地は、それに隣接する箕面小学校の児童数の増加により、これを学校用地に編入する必要に迫られたため、箕面市は、昭和五〇年一月ころから分会の旧忠魂碑の所有権及びその敷地利用権を承継取得したとみられる市遺族会を相手に忠魂碑の移転について折衝し、その結果、同年五月二一日、市遺族会との間で、旧忠魂碑を現状有姿のまま、かつ碑前で慰霊祭を行うにつき必要な広さを確保するなどの条件で、本件土地の南隅に移設する合意をし、同年一二月二〇日、旧忠魂碑を右土地に移設・再建した(本件忠魂碑)。なお、本件忠魂碑の移設・再建工事を請負った不動建設株式会社は、移設工事前に旧忠魂碑の前で、移設・再建工事後に本件忠魂碑の前で、それぞれ神官を呼び、玉串奉奠等の儀式を伴う神式の祭儀を行い、その費用を負担したが、その際、市遺族会の側では、その儀式を旧忠魂碑の前でのものを移築報告祭あるいは脱魂式と、また本件忠魂碑前でのものを移築竣工祭あるいは入魂式と呼んだ。もっとも、右脱魂式、入魂式というのは、本来は、仏教用語であり、仏像の清掃、仏壇の移動等の際用いられる言葉である。

(2) 本件忠魂碑の現況

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

① 本件忠魂碑は、二重の石積の基台の上に、台石を配し、その上に高さ約2.5メートルの碑石が安置されており、地上から碑石最高部までの高さは約6.3メートルである。また、その周囲は、切石積で囲まれ、正面と両側面の一部には御影石の玉垣が巡らされており、右切石積の囲い内部には、かいずかいぶき、松等の喬木やサツキ等のかん木が随所に植えられ、白砂利が敷き詰められている。なお、本件忠魂碑の碑石の表面には、「忠魂碑」と刻されているが、右題字の揮毫者は、在郷軍人会の当時の副会長であり陸軍大将であった福島安正である。

② 昭和四一年ころ、当時の市遺族会の会長であった加藤由次郎は、旧忠魂碑に、市遺族会の各地区で保管していた戦没者の過去帳から戦没者の氏名を丸杉板及び「霊爾」と印された木柱に移記し、これらを本件忠魂碑の基礎台中に納めたが、納めるに際し、特に儀式等は行わず、そのせいもあって、遺族会の会員の中でも、右の丸杉板や「霊爾」の存在を知るものは少なかった。なお、右の丸杉板や「霊爾」が納められた経過は必ずしも明らかでないが、右加藤が、沖縄の「浪花の塔」に戦没者の名前を紙に書いて納めてあるのを参考にしたものである。

(五) 本件慰霊祭及び碑前慰霊祭について

前記(三)認定のとおり、市遺族会は、本件忠魂碑前で、毎年、慰霊祭(碑前慰霊祭)を挙行していることが明らかである。

(1) 碑前慰霊祭の主催者

被告は、右慰霊祭は、箕面地区遺族会(区遺族会)の主催であり、市遺族会の主催ではないと主張するが、前掲甲第六七号証によれば、市遺族会の会則上、同会は、「本会は箕面市に居住する戦没者遺族をもって会員とする。」(五条)として、箕面市全域に居住をする戦没者遺族を会員としており、また右会則上、「本会は各地区毎(箕面、萱野、豊川、止々呂美)に支部を組織する。」と規定して、区遺族会が、市遺族会の一支部であることを明記していることが認められること、区遺族会を含む各地区遺族会において、市遺族会の右会則のほかに、独自の会則、規約等を有しているとは認められないこと、さらに、乙第七七号証の二によれば、区遺族会の昭和五一年度の金銭出納帳に記載されている区遺族会の昭和五一年度の金銭の収支は、同年四月五日に行われた本件慰霊祭に関する金銭の収支のみであることが認められ、それ以外には区遺族会として独自の活動を行っている形跡は全く窺われないことなどからすれば、区遺族会は、単に市遺族会の一支部組織であることは明らかである。そうすると、現実に本件慰霊祭及び碑前慰霊祭の実行の中心となったのは区遺族会であったとしても、それは市遺族会の支部の活動とみられるのであるから、その正式な主催団体・挙行主体は、市遺族会であるとみるほかはない。

(2) 碑前慰霊祭の沿革等

〈証拠〉によれば、旧忠魂碑の建立以後、分会は、右忠魂碑の前で、昭和一四、一五年ころまで、毎年、慰霊祭(大正一三年ころ以降は、神式、仏式隔年交替であったようであるが、それ以前の形式は定かではない。)を挙行していたが、その後は戦争が激しくなって慰霊祭は中断されたこと、また、前記(四)の(1)の②のとおり、同碑は、敗戦後、一度地中に埋められ、昭和二六年ころ復旧されたものであるが(本件忠魂碑)、その後昭和三〇年ころから再び、右碑の前で慰霊祭が行われるようになり、右慰霊祭は、当初はずっと仏式で行われていたものの、のちに戦前と同じく、隔年で神式、仏式交替で行われるようになったことが認められる。

(3) 本件慰霊祭及び碑前慰霊祭の祭式

〈証拠〉を総合すれば、本件慰霊祭の祭式(神式)及びその前後の年に行われた碑前慰霊祭の祭式(仏式)は、以下のようなものと認められる。

① 神式の場合(本件慰霊祭)

神主は、阿比太神社からくる。

[式次第]

開会の辞

修祓の儀

降神の儀

献饌

祝詞奏上―斎主(神職)

慰霊の詞―市遺族会会長(「今日の故国の平和と繁栄は、身をもって国難に殉ぜられたあなた方の尊い命の礎の上に築かれていることを〜」という内容のもの。)

追悼の辞―箕面市長、箕面市議会議長

玉串奉奠

撤饌

昇神の儀

謝辞―市遺族会会長(「この忠魂碑を守り、祭祀を怠りなくやっていき、これに合祀されている二九八柱の英霊の顕彰をする事業をますます盛んに〜」という内容のもの)。

閉会の辞―箕面地区遺族会長(支部長)(「この忠魂碑を守神として祭祀を怠りなくいたす覚悟。この忠魂碑を守り、来年もこの立派な忠魂碑を拝み、皆様の御協力を得て盛大に忠魂碑前で慰霊祭〜」という内容のもの)

[会場設営の状況]

本件忠魂碑正面の玉垣の内側に設けられた机の上の中央部に神籬(ヒモロギ―切紙をつけた榊を立てた木製のやぐらで、神が降下して宿る所を意味する。)が立てられ、その少し前の段の白布に覆われた机(机は二段になっている。)の上には祭壇が設けられ、その上にはそれぞれ神酒、餅、果物等の神饌が盛られた七基の三方が置かれた。玉垣の外側には、左右に一脚ずつ白布をかぶせた長机が置かれ、それぞれその上に数十本の玉串(榊の小枝に切紙をつけたもの)が載せられた。そして祭壇に向かって左右それぞれに参列者用の椅子が並べられた。

② 仏式の場合(昭和五二年度等)

開式の辞

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表白―導師の立場から、追悼法要の趣旨を明らかにする(「ここに忠魂のために慰霊法要を執り行う。国の鎮めの礎となり、そして平和と繁栄を招来した御身らの尊い御業事は、大乗ぼさつの悲願にも似て我らの永えに忘れ得ない勲である。」という内容のもの)。

読経―曹洞宗、浄土宗、浄土真宗の寺院の僧侶が出席し、まず、三部経(1 阿弥陀如来の入場をお願いする、2 釈迦如来の入場、3 常住諸仏の入場をお願いするという内容のお経)を読経し、その後に阿弥陀経を読経して、念仏、回向する。

焼香―香を焚いてその煙りで仏に供養する。

慰霊・追悼の辞等

閉式の辞

4  国家神道の歴史と靖国神社の性格並びにそれらと忠魂碑及び忠魂碑前での慰霊祭との関係等

原告らは、日本遺族会は、靖国神社の教義を信奉し、その信仰の共通性によって成り立っている靖国神社の信徒団体であるところ、右靖国神社の教義とは、今日も残存している宗教としての国家神道であること、なお、市遺族会の維持、管理している忠魂碑は、「村の靖国」としての性格を持つ国家神道の宗教施設であり、その碑前での慰霊祭も靖国神社の祭祀と同根同質のものである旨主張するので、以下、まず国家神道の歴史と靖国神社の性格並びにそれらと忠魂碑及び忠魂碑前での慰霊祭との関係等を検討する。

(一) 国家神道の歴史と性格及び戦後の状況

〈証拠〉にわが国の歴史上顕著な事実を総合すれば、以下の事実が認められる(なお、議論の混乱を避けるため、一般に広く国家神道と呼ばれているもののうち、神社神道から祭祀の面のみを切り離し、それを国家祭祀として国教化し、それに伴い神社界を公権的に編成して、神社に対する国家的庇護を行っていたという面を「制度的国家神道」と呼び、その背景となり、またそれを支えていた、天皇の神聖絶対性を主軸とする、宗教と政治的イデオロギーの入り混じった思想、観念を「実質的国家神道」と呼ぶ。なお、単に「国家神道」というときは、その両者を含めた概念として用いる。)。

(1) 制度的国家神道体制

明治元年、新政府は、祭政一致を布告し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令をもって神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に対しては、幕府の方針をほとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。明治三年、大教宣布の詔によって神惟の道が宣布され、明治五年、教部省は、教導職に対し三条の教則(第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、明治四年、政府は、神社は国家の宗祀であり一人一家の私有にすべきではないとし(太政官布告第二三四号)、さらに、「官社以下定額及神官職員規則等」(太政官布告第二三五号)により、伊勢神宮を別として、神社を官社(官幣社、国幣社)、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。明治八年、政府は、神仏各宗合同の布教を差し止め、各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容認する旨を口達しながら、明治一五年、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとする旨の達(内務省乙第七号、丁第一号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることによって宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する制度的国家神道を固めた。明治二二年、帝国憲法が発布され、その二八条は信教の自由を保障していたものの、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴っていたばかりでなく、法制上は、国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、右のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした制度的国家神道の体制が確立しており、神社を崇敬奉戴すべきは国民の義務であるとされ、神社参拝等が事実上強制されていたために、信教の自由は著しく侵害され、極めて不完全なものであることを免れなかった。さらに、明治三九年法律第二四号「官国幣社経費ニ関スル法律」により、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また同年勅令第九六号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国または地方公共団体と財政的にも完全に結び付くに至った。このようにして、昭和二〇年の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、厳しい取締、禁圧を受け、その信者の中には、その信条ゆえに死を余儀なくされる人々も出た。

(2) このように政府は、神社神道を、実体は宗教でありながら、国家の祭祀であるとして、宗教ではないとの態度をとり続け、国民に対する制度的国家神道の強制を合理化し、正当化したものであるが、それが可能となった背景には、日本では、国土、人種、言語の自然形成的な統一が早くから成立しており、また、近代以前には、生産力の飛躍的な発展がなく、これを反映して、変革の各時期に権力の交替が不徹底であり、重層的に旧権力が温存されて、宗教的権威としての天皇制が存続し続けたこと等のほか、以下のような、制度的国家神道の主体をなす神社神道の宗教としての特異な性格があったことが挙げられる。すなわち、神社神道は、基本的に、日本の原始社会で成立した原始神道の性格をそのまま受け継いでいるものであるところ、原始神道は、稲作りのための農耕儀礼である春の予祝祭、秋の収穫祭等、定時、臨時の祭りを主軸として発展したものであり、もともと教義と呼ぶに足る観念的な体系のない原始的な宗教観念にすぎず、教義と呼ぶべき体系が現われるのは、神道が仏教、儒教の外来宗教の支配的な影響下に置かれてからであり、特に仏教との習合は著しく、このような中で、神道は、宮中祭祀たる皇室神道等特定の立場に立つものを除いては、観念の上でも、儀礼の上でも、仏教、儒教等と完全に習合し、溶け合っていたものであり、このような神道の、仏教あるいは儒教との親和性が、そのほとんどが仏教徒であり、また儒教に基づく徳目を道徳、倫理観念の基本としていた当時の日本国民に違和感なく受け入れられる素因となった。

(3) 原始神道は、当初は、特定の建造物は建てられなかったものの、その祭りが規模を拡大し、複雑化するとともに、祭りのたびに仮屋が作られるようになり、やがて有力な神のために恒久的な社殿が作られるようになり、その中に鏡や岩石等の自然物が神体として置かれるようになって、宗教施設としての神社の基本型が成立し、神社神道へと発展していったものであるところ、その神観念は、大陸及び南方系の稲の農耕儀礼を中心とする神々と、北アジア及び大陸系のシャーマニズム系統の神々の複合であり、自然神、観念神、人格神、祖先神の各系列があったが、古代天皇制国家の整備に伴い、記紀神話を中心として神々が天神地祇に序列化され八百万神、八十万神群がつくられ、天皇の祖先神アマテラスオオミカミは、日本の最高神に高められていった。平安中期には、のちに招魂社の発生にも結び付く御霊信仰が生まれた。御霊とは、もともと人間の霊魂の美称であるが、平安中期には、地方政治の混乱と政争の激化に加えて自然災害や疾病が猛威をふるったため、これらの災厄を強い霊の崇りと畏怖して、御霊を祀り鎮める神事として御霊信仰が発生したものであり、とくにすぐれて個性的な働きをした人間や、正常でない死に方をした人間の御霊は、死後も強い霊威をもつ神となって、人間に働きかけると信じられていた。

(4) 制度的国家神道、基本的には神社神道を母胎とするものではあったが、前記のように、神社神道自体、統一された明確な教義を持っていたわけではなく、また、その中の祭祀のみを切り離したものが制度的国家神道であったというその性格上、民族宗教として発展してきた従来の神社神道とは異質な面があり、それはその祭祀面をみても、一種の創唱宗教としての要素をも持つものである。すなわち、その祭祀は、宮中祭祀を中心に組み立てられたものであるところ、その主要な内容と形式は、明治四一年の皇室祭祀令によって確定したものであるが、そのうち明治維新前から行われていた祭祀はごく少数であり、紀元節祭、神武天皇祭、天長節祭、先帝以前三代の例祭等は、すべて新たに作り出された祭祀であり、これらは、天皇の祖先の祭りと記紀神話に依拠する政治色の強い祭りであり、天皇崇拝を積極的に押し出すために明治中期までに制定されていったものである。そして、これら宮中の祭祀に従い、国民の祝祭日が定められるとともに、伊勢神宮以下、一般の神社の祭祀も整備され、全国の神社で、宮中祭祀に見合う儀礼が営まれるようになっていった。

(5) 制度的国家神道における祭祀が、必ずしも従来の神社神道と一致するものではなく、創唱宗教としての面を持ったのと同様、制度的国家神道の背景となり、またそれを実質的に支えた宗教観念(実質的国家神道)も、従来の神社神道と必ずしも一致するものではなく、一種の創唱宗教としての面を持っていた。すなわち、それは、基本的には前記のような伊勢神道や復古神道の教学に基づく面が多いが、それらにとどまるものではなく、天皇を絶対的中心とする中央集権的国家体制の確立のための政治的・思想的イデオロギーをもそこに織り交ぜ、民族宗教たる民間の神道とは異なる要素を強く持っていたものであり、その最も要となる宗教思想は、天皇は、惟神の道の創唱者であり、また皇祖神は最高の絶対神であって、その皇祖神の唯一の祭祀者であることによって、天皇みずからも現人神であるとする観念であり、その根拠は、記紀神話にあるとされた。

明治政府は、明治二二年二月一一日、帝国憲法を発布(翌明治二三年一一月二九日施行)したが、その告文では、「皇朕レ、謹ミ畏ミ、皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク。皇朕レ、天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ寶祚ヲ継承シ、舊圖ヲ保持シテ、敢テ失墜スルコト無シ。顧ミルニ、世局ノ進軍ニ膺リ、人文ノ発達ニ随ヒ、宣ク皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ、典憲ヲ成立シ、條章ヲ昭示シ、内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ、外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ廣メ、永遠ニ遵行セシメ、益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ、八州民生ノ慶福ヲ増進スヘシ。茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス。」として、帝国憲法を皇祖皇宗の神霊と一体化した天皇の宗教的権威によって絶対化するとともに、その一条では、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定して皇統の万世一系を強調し、その三条では、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」として、その神聖不可侵性を規定して、前記のような天皇の神性を法的に明確にした。また、明治二三年に発布された教育勅語では、「朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ、我カ臣民、克ク忠ニ、克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世々蕨ノ美ヲ済セルハ、此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」として、臣民の忠孝こそ国体の精華であり、教育の淵源も国体にあるとしたうえ、さらに「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、〜」と儒教的な徳目を列挙して、これを守り行うことを命じたのち、「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」として、戦争等の非常事態にさいして、天皇制国家のためにすべてを捧げることを国民に命じ、孝を中心とする国民道徳を、天皇への忠節を基本とする国家道徳に包含、拡大するとともに、これらを守り実践することは、「独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」として、儒教に基づく封建的忠誠の観念と、日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝との観念とを結合させ、実質的国家神道に基づく教育理念を公的に宣明した。

(6) なお、昭和一九年に神祇院が刊行した「神社本義」には、実質的国家神道の宗教思想及びそれと各神社との関係が端的にまとめられており、その要旨は以下のようなものである。「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇給うた国であって、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめ給う。これ万邦無比の我が国体である。我が国にあっては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給い、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉って、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生々発展し続けている。これが我が国体の精華である。この万世易ることなき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇まり無窮に通じ、中外に施して悖ることなき道こそは、惟道の大道である。しかして惟神の大道が、最も荘厳にして尊貴なる姿として現れたものに神社がある。伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳なる我が国体を顕現し、永久に皇国を鎮護せられているのである。」。

(7) このように実質的国家神道体制下においては、国家の主権者たる天皇が精神的権威と政治的権力を一元的に保有しており、単なる法機構上のみならず、内容的価値(真善美)の実体たるところに支配根拠を置き、そこでは、国家的社会的地位の価値基準はその社会的機能よりも、天皇という絶対的価値体への距離の近さにあった。そして、国家が国体の名において、倫理的実体として価値内容の独占的決定者であった以上、国法は、学問、芸術、宗教等の精神領域にも自由に浸透しうることになり、このような面でも、昭和二〇年の詔勅(天皇の人間宣言)で天皇の神性が否定され、実質的国家神道が解体するまでは、真の意味の信教の自由は存在しえなかった。また、国家の主権者たる天皇が、みずからのうちに絶対的価値を体現している以上、道義は、こうした国体のうちにあり、国家活動は常に大義であって、軍隊は、皇軍として国体の精華を外に広めるものとされ、戦争は聖戦であり、それを超える道義的基準は存在せず、そのような意識が、日本軍の今次の戦争での種々の暴虐行為につながっていった面のあることも否定できない。また、太平洋戦争末期には、それがより極端な形で現れ、日本書記中の神武天皇の詔からとられた「八紘一宇」の教義すなわち全世界を天皇に帰一させるという主張や、敗戦色濃厚になってからは、日本を神の国であるとして神州不滅が叫ばれるなど、実質的国家神道は、戦前の日本の超国家主義・軍国主義を支える精神的基盤ともなっていた。なお、帝国憲法下では、軍隊は、天皇に直属するものとされ、また国家機能の上でも中枢的地位にあり、その天皇への直属性によって、他の国家機関に比し優越的地位にあり、軍人も、このような究極的価値の体現者たる天皇への近さによって、一般人よりも優越的地位を占めていた。日本軍の戦争遂行過程での戦死者が、神として靖国神社に祀られていたことは後記のとおりであるが、このように戦死者が尊び、崇め祀られたゆえんは、それが単に国策遂行上の犠牲者であり、社会公共の利益のために尽したからということにとどまるものではなく、天皇の軍隊において、天皇が体現している大義の遂行過程で、天皇のため死に至ったものであるという理由によるところが大きい。

(8) 実質的国家神道の宗教的性格

前記のように国家神道の内容、性格は、建前としては、単に国家の祭祀であり宗教ではないとされたが、実体は、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教であり、一見宗教性が明らかでないようにみえるのは、創唱者が特定できないこと、体系的な教義が存在しないこと、民族宗教を超えた普遍性がみられないこと、職業的宗教家による積極的組織的な布教活動がなかったことなどのほか、その中には儒教に基づく封建的忠誠の観念や、日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝の観念も結合し、しかもそれら家父長制的家族道徳の延長、拡大として、天皇を中心とする国家体制が存在し、宗教的観念と国民道徳とが分かちがたく結び付いていたことによるが、その国民道徳的な側面も究極的には、天皇の神聖絶対性に収斂するものであって、客観的にみる限り、これら一見国民道徳、社会倫理とみえるものも、その意味において宗教たる国家神道の中に包含されるというほかはない。なお、戦前の神道学者であった加藤玄智は、国家神道(実質的)は一見すると国民道徳とか国家の典礼と考えられがちで、宗教ではないようにみえるのは、それが神人同格教であり、かつ国民的宗教であることによるものであって、このような現象を国家的神道の倫理的変装というとしている。

(9) 昭和二〇年八月一五日、日本は、敗戦を迎えたが、連合軍総司令部は、制度的・実質的国家神道こそ日本の軍国主義を支えた大きな要因であったとの認識から、その早急な除去・解体を目指し、同年一〇月、「政治的、社会的及宗教的自由に対する制限除去」の覚書を発して、信教の自由の確立や、治安維持法、宗教団体法等の弾圧統制法規の撤廃等を指示し、また、同年一二月一五日には、神道指令を発した。同指令は、国家と神社神道を含むあらゆる宗教との完全な分離によって制度的国家神道の解体を目指すとともに、軍国主義的ないし超国家主義的イデオロギー及びそれらと分かちがたく結び付いた天皇の神性を基礎とする実質的国家神道の打破を目指したものであり、その具体的な方策として、神社神道に対する国家・官公吏の特別な保護監督の停止、公の財政的援助の停止、神祇院の廃止、神道的性格を持つ官公立学校の廃止、一般官公立学校における神道的教育の廃止、教書からの神道的教材の削除、学校、役場等からの神棚等の神道的施設の除去、官公吏・一般国民が神道的行事に参加しない自由、役人の資格での神社参拝の廃止、さらに日本が神国であるとの観念に立つ用語の使用禁止等の具体的な措置を明示しており、これに基づき、同月二八日、宗教団体法が廃止され、それに代わって緊急勅令で宗教法人令が公布施行された。また、翌昭和二一年二月二日、神祇院官制をはじめ、すべての神社関係法令が廃止され、制度的国家神道は、ここに解体し、また実質的国家神道もその消滅が図られることとなった。

(10) 昭和二一年一月一日、天皇は、年頭にあたって詔書を出し、その中で、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。」(人間宣言)と述べ、みずから自己の神性及びそれに基づく日本国民の他民族に対する優越性を否定した。さらに、昭和二一年一一月三日、象徴天皇制、国民主権、基本的人権の尊重、永久平和主義をうたった日本国憲法が公布され、翌昭和二二年五月三日から施行され、その前文では、新憲法の理念である平和主義、国民主権に反する一切の憲法、法令及び詔勅の排除が宣言され、民主主義体制への変革が始まった。もっとも、このような体制の変革が直ちに徹底され、新憲法の理念が浸透していったわけではなく、文部省は、敗戦後も、依然、教育勅語を国民教育の淵源とするかのような通達を出すなどしていたため、昭和二三年六月には、衆議院で、「教育勅語の排除に関する決議」が、また、参議院で、同じく「教育勅語等の失効確認に関する決議」がなされるなどした。

(11) 戦前の日本において、神たる天皇が、精神的権威と政治的権力を一元的に保有しており、すべての権力の源であるとともに、すべての価値体系の基準であったことは前記(7)認定のとおりであるが、人間宣言及び新憲法のとる象徴天皇制によって、権力体系としての天皇が否定されたのはもちろん、価値体系の根源としての天皇制も否定されたとみるほかなく、その意味で、戦前のように、国家のためということは天皇のためということと同義であり、愛国心はすなわち天皇への忠節であるという観念も否定されたというほかない。むろん、後者は国民各自の倫理的・心理的側面に属する要素を持つのであって、それらの意識の問題に帰する側面があるのであるから、一律にその変容の有無を決せられないことはいうまでもないが、人間宣言及び新憲法の公布以後、一般的かつ大多数の国民の意識としては、そのような天皇の神性を基盤として、天皇がすべての価値体系の根源であるとの意識は、もはや存在しなくなっていると考えられる。もっとも、実質的国家神道は、その中に、儒教思想に基づく封建忠誠の観念や、日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝の観念をもこれに結合させ、それによって孝を家父長制的家族道徳の基本とし、それを家族国家観にそのまま拡大したという面を持つのであって、実質的国家神道のこれら道徳的、倫理的側面は、それらが、永きにわたった日本人の伝統的思考様式であったこともあり、未だ多くの人々の意識の中に残存していると考えられるが、これらもその宗教性を基礎づけていた天皇の神聖絶対性と切り離してみた場合、もはや宗教というより、単なる道徳的・倫理的観念とみられるのであって、結局、これら天皇制をめぐる変革により、宗教としての実質的国家神道は消滅したというほかない。

なお、今日、一部の人々の間には、天皇の地位を単なる象徴の地位にとどめず、名実ともに国の元首としようとの動きや、さらに、戦後の今も、天皇こそは国民道徳の中心であり、愛国心はすなわち天皇への敬愛心であるとし、また、そのような考えを積極的に広めようとする動きがあることは否定できないが、それが、大多数の国民の一般的な支持を得ているとは未だ認めがたいうえ、そのような観念も、天皇の神性をその根源に置いているとは認めがたい以上、それは宗教を離れた政治的・道徳的イデオロギーの領域に属するものといわざるを得ず、それをもって、ただちに実質的国家神道の残存あるいは復活とはいえないと考えられる。

(二) 靖国神社の起源と歴史

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(1) 靖国神社の前身は、東京招魂社であるところ、招魂社とは、文久二年(一八六二年)に、京都にいた志士の有志が京都東山の霊明舎で、国事に倒れた殉難者のために慰霊祭を行い、さらに翌文久三年に京都祇園社内に小祠を建て、招魂祭を執行するなどしていたのが、その起源とされ、その後明治元年、「癸丑以来殉難者ノ霊ヲ京都東山ニ祭祀スル件」「伏見戦争以後戦死者ノ霊ヲ京都東山ニ祭祀スル件」との太政官布告が出され、それに基づき各藩でも招魂社を設立するようになり、その数は、一〇五に達した(これがのちに護国神社となる。)。なお、右布告には、祭祀の趣旨が「忠魂」を慰めることにある旨の記載「其志操ヲ天下ニ表ハシ其忠魂ヲ被慰度今般東山〜」があり、招魂社の創立の趣旨が、天皇への忠誠を尽して死んだ者を祀ることにあることが明記されている。一方明治元年、江戸城に入城した有栖川宮熾仁親王は、各所で陣没した将士のため招魂祭を行うべき旨の沙汰を出すとともに、その人数の調査を命じ、戊辰の役陣没者に対する招魂祭が江戸城内で、次いで京都でも行われた。

(2) 翌明治二年、東京遷都が行われ、招魂社が東京に建立されることになり、「招魂社ヲ東京九段坂上ニ営ミ戊辰以来戦死ノ士ヲ祭ル」との太政官布告が出されて、ここに東京招魂社が創建され、戊辰の役の戦没者三五八八柱が合祀され、東京招魂社は、永代祭祀料として一万石を下付された。その後、明治一二年六月、明治天皇の思召で、東京招魂社は、社号を靖国神社と改め、別格官幣社とされた。右改称に際しての、「社号改称・社格制定ノ御祭文」では、その改称と靖国神社の発足の趣旨が、天皇のために戦った戦死者を祀ることにあることが明らかにされている。なお、靖国神社の霊璽(神体)は、神剣及び神鏡であり、副霊璽は合祀者の官位、姓名を列記した霊璽簿である。

(3) その後、明治二〇年、神官制度が神職制度に改正された際、靖国神社の神職の任免権は、内務省から陸・海軍省に移管されるに至り、また、昭和一四年、地方招魂社が内務省管下の護国神社に改編され、府県社に準ずる指定護国神社と村社に準ずる指定外護国神社の制度が設けられた際、護国神社の祭神はそれぞれの地域に関係のある靖国神社の祭神とすることが定められ、靖国神社は、制度的国家神道の中核的施設として位置付けられ、このような社格上からも、また、明治、大正、昭和を通じ、歴代の天皇が、全国の神宮、神社の中で、最も数多くみずから参拝(親拝)を重ねた(なお、昭和一三年以降は、毎年の春秋の臨時大祭に欠かさず天皇が親拝するようになり、それは敗戦後の昭和二〇年一一月まで続いた。)という点でも、靖国神社は、制度的国家神道体制の中で極めて重要な地位を占めていた。

(4) 前記のように、靖国神社の創建の趣旨は、明治維新前の天皇軍の殉難者及び将来国家のために殉難死する者を神霊たる忠魂として合祀することにあり、その特色としては、他の別格官幣社は、功臣を祭祀する神社であるが、その祭神は、いずれもある特定の個人に限られたものであって、多数者を合祀するために一社を創建されるということはなかったのに対し、靖国神社はこの慣例を超えて、広く国家の大事に際して一身を捧げ尽した多数の死者を神霊として合わせ祭祀(合祀)するものであり、そのような性格上、神社の祭神は、固定したものではなく、将来増え続けることが予定されていた。なお、このような靖国神社建立の背景にあった招魂の観念は、沿革的には、前記の神道の歴史の中での御霊信仰の系譜を引くものと考えられるが、御霊信仰の場合には、必ずしも敵味方を問わず、非業の死を遂げた者を手厚く鎮めるというものであるのに対し、招魂の観念は、もっぱら天皇軍の死者のみを手厚く弔祭するという点で、御霊信仰とはやや異なる面を持つ観念である。

(5) 前記のように、靖国神社は、制度的国家神道の中で重要な地位を占める神社であったが、それは同時に実質的国家神道の普及、拡大という面でも重要な役割を果たしていた。すなわち、戦没者が靖国神社に神として祀られ、尊拝されるゆえんは、もちろん、それらの人々が、戦争という国策遂行上の犠牲者であり、国民一般のために尽したという面もあったにはせよ、決してそれのみにとどまるものではなく、むしろ、天皇の軍隊たる皇軍において、大義の遂行たる聖戦で、天皇に忠節を尽して死んだという面によるところが大きく、また、そのような戦没者は、生前の所業一切を不問に付されて同神社に神として祀られ、国民から永く尊拝されるのみならず、絶対的価値体現者たる天皇みずからの参拝を受けて慰霊されるという、当時の価値体系からすれば、抜きん出た栄誉を与えられていたものであり、このような靖国神社の祭祀の性格が、国民に天皇への忠節が至上の美徳であるとの観念を植え付け、実質的国家神道の普及、拡大に寄与するとともに、戦場での死を美化することによって、戦争に向けての国民の意思を統合する機能、役割を果たし、ひいて軍国主義の拡大に寄与する面をもっていたことは否定できない。

(6) このような靖国神社の性格及びその創建の趣旨が本来的に忠魂すなわち天皇に忠節を尽して死んだ者を祀ることにあったことから、同神社への合祀手続は、天皇あるいはその勅使が参拝し、神前に祭文を奏上する儀式を経ることが必要とされ、かつその基準は、聖戦とされた戦争において、天皇の軍隊たる皇軍の一員として、天皇のために忠誠を尽して戦い、死ぬことにあった。なお、日清戦争直後まで、戦病者は、合祀の対象になっていなかったが、明治三一年に至って、天皇の特旨という形で合祀が認められ、以後は戦病者も合祀が認められるようになっていったが、単なる戦争被災者、戦争で捕虜となって死亡した者等は、戦後の今も合祀の対象とはなっていない。右合祀の式次第は、要約すれば、祭典の前に修祓式(清はらい)があり、ついで招魂式(戦没者の霊魂を靖国神社の境内に招き降ろし、霊璽簿と呼ばれる戦没者名簿に乗り移らせる儀式)があり、その後、霊璽奉安祭(霊が乗り移った霊璽簿を御羽車で移動し、本殿に奉遷し、内陣に奉安する儀式)を行う。ついで、その翌日、天皇の勅使あるいは天皇みずからが参拝し、神前に祭文を奏上する儀式が行われ、これらの手続を経て戦没者の霊は、はじめて正式に祭神とされ、すでに祀られている祭神とともに、合祀される。これで、合祀の手続が終了し、翌日から臨時大祭が行われるが、その期間は、合祀される祭神数により長短がある。なお、狭義の合祀祭とは右翌日以降の儀式のみをいうが、広義では、右招魂祭や霊璽奉安祭をも含めて合祀祭という。

(7) ところで、本来の神道自体にも、また、実質的国家神道にも、体系的な教義(宗教思想)が存在しないことは前記のとおりであり、その一宗教施設たる靖国神社についても、その宗教思想を明確な形で特定することは困難であるが、以上述べてきたようなその沿革、創建の趣旨、合祀祭の祭式等に照らせば、靖国神社は、人間の死後も霊魂が存在するという観念のうえに立ち、それを招き降ろして神社に神霊として祀るという宗教儀礼を行う面では、神社神道の一系譜たる御霊信仰に結び付く宗教思想を持ち、また、神としての天皇のために死んだ者を、その忠義のゆえに、他の戦死者及びその他の死者と区別して、特に神霊と崇め、称えるという面においては、まさに天皇崇拝を主軸とする実質的国家神道の宗教思想の上に立つものであり、この両者が、渾然一体をなしていたものが、制度的・実質的国家神道下における靖国神社の祭祀を支え、その存立の基礎となっていた宗教思想であると考えられ、それは、基本的に、前記のような招魂祭、招魂社の背景となった招魂の観念を発展、整備したものであり、その祭祀の趣旨を一言でいえば、忠魂を慰めるということにあると解される。

(8) このように靖国神社は、制度的にも、またそれを基礎づける宗教思想の面でも紛れもなく特定の宗教施設であったが、制度的・実質的国家神道体制下での教育の浸透と国家的祭祀の普及につれ、一般国民にとっては、戦没者の靖国神社への合祀ということが、次第に特に宗教的意識を伴うことなく自明のこととして受け止められるようになり、「死んだら靖国で会おう」ということが出征者の合言葉のようになっていき、その言葉に示されるように、戦死者の霊魂の帰一するところは、靖国神社のほかにはないというように考えられるようになった。このような風潮と、靖国神社が、国営の祭祀施設であったという性格から、太平洋戦争の終結までは、戦没者の追悼、慰霊は、靖国神社の存在と切り離しては考えられず、靖国神社に神として合祀されることがすなわち戦没者の真の意味の慰霊であり、追悼であるとされた。

(9) 右のように靖国神社への戦没者の合祀が一般化するに伴い、戦没者の霊を「英霊」と呼称することも次第に一般化していった。なお、「英霊」という言葉は、もともと霊魂の美称であるが、幕末に、水戸藩の藤田東湖が、「文天祥の正気の歌に和す」と題する漢詩で、「英霊いまだかつて泯びず、とこしえに天地の間にあり」と歌い、この漢詩が志士の間で愛唱されて以来、用いられるようになった言葉であり、それが戦没者の霊を呼ぶ言葉として一般化したのは、明治四四年、当時の靖国神社宮司であった賀茂百樹が、「靖国神社誌」を刊行した際、その序文で、靖国神社の祭神を「英霊」と呼んでいることや、後記のように、戦没者を記念、追悼する碑の名称として「英霊碑」という名称のものは、昭和期になってから次第にあらわれたことなどからして、日露戦争の前後と考えられる。なお、「英霊」とは、国すなわち天皇のために戦って死んだ者の魂ということであって、実質的に「忠魂」という言葉と同義であり、靖国神社の祭神ともほぼ一致するものであるが、そのような用語が次第に一般化し、広く使われるようになったのは、天皇への忠誠が、日本国民にとって当然の行為であるとする天皇制教育が浸透するとともに、戦没者個々の忠誠に力点を置いた忠魂という言葉よりも、より個性のうすい抽象的な美称である「英霊」という語が適当とされたことによるのではないかと推測される。

(10) 昭和二〇年八月一五日の敗戦に伴い、連合軍総司令部は、同年一二月一五日、神道指令を発し、国家と神社神道との完全な分離等を命じ、翌昭和二一年二月二日には、神祇院官制をはじめ、神社関係の全法令が廃止され、ここに制度的国家神道は解体したことは前記(一)の(9)のとおりであり、皇室神道も公的性格を喪失し、宮中祭祀は、天皇の私的行為となった。それに伴い、神祇院廃止の翌日である同月三日、民間の宗教団体として神社本庁が設立され、また同月二二日には、宗教団体法にかわる宗教法人令が公布され、全国の神社の大半は、順次、包括的宗教法人である神社本庁に帰属し、神祇院の管轄下にあった各護国神社も、届け出を行って宗教法人となり、神社本庁に帰属していった。その中で、靖国神社は、第一、第二復員省(旧陸軍省及び海軍省の事務を引継いだ。)の管轄下にあったという特殊性もあり、神社本庁には所属せず、東京都の単立宗教法人となった。なお、敗戦後の昭和二〇年一一月、靖国神社では、第二次世界大戦での戦没者につき、個々の戦没者を特定しない形で、一括合祀を行い、また翌昭和二一年四月、宗教法人となって最初の霊璽奉安祭を行ったが、同年秋に予定していた霊璽奉安祭は、総司令部によって禁止され、その後昭和二七年の講話条約発効までは、合祀の祭典を挙行することは不可能になったが、その間も靖国神社では、右各省及び宮内庁の支援を受けて、さきに一括合祀した戦没者の個別の合祀手続を進めていた。

(11) その後、昭和二七年一月二八日、宗教法人令の廃止と宗教法人法の施行に伴い、靖国神社は、同年九月、単立の宗教法人となったが、右法人の規則(同年九月制定)三条によればその目的は、「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基づき、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他神社の目的を達するための業務を行うことを目的とする。」とされ、その創建の趣旨は明治天皇の聖旨を継承しながらも、奉斎する祭神としては、「国事殉難者」という必ずしも天皇とのかかわりを持たない一般的な表現にし、やや姿を変えた形で、存続することになった。右崇敬者とは、氏子、信者又は信徒と同義である。

(12) ただ、戦後においても、現実の合祀者の選定基準は、戦前のそれと基本的には変わらず、軍人、軍属、準軍属の戦死者(この中には、平和条約一一条により死亡した者すなわち極東軍事法廷処刑者も含まれる。)、戦傷死者、戦病死者等のほか、軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷又は疾病により死亡した者や、国家総動員法に基づく徴用又は協力中の死没者、さらに船舶運営会の運航する船舶の乗組員の死者等があるが、いずれも、直接、間接に積極的に戦争において戦い、それに協力した者であり、単なる戦争被災者等は、それに含まれていない。また、自衛隊発足後は、その訓練中の公務死者等も、合祀の対象となっているようである。また、これら戦没者を合祀する合祀祭の式次第も、天皇の臨席等を除けば、前記認定のような戦前の祭式と基本的に同一である。ただ、合祀者の選定手続は、戦前は、戦没者が生じた時点において、陸・海軍省大臣官房内に審査委員会が設置され、高級副官を委員長とし、各部将校を委員に任命し、出先部隊長又は連隊区司令官からの上申に基づき、個別審査の上、陸海軍大臣から天皇に上奏御裁可を経て、合祀者が決定され、官報で発表、合祀祭が執行されるという段取になっていたが、戦後は、決定された合祀者名簿を天皇に差上げ、上覧に供するという形に変わっている。もっとも、合祀に際しては、合祀される遺族の意思は、反映される余地がなく、その意味で遺族の好むと好まざるとにかかわらず、合祀する側で、一方的に合祀の適格者を選び、合祀された場合、その旨を遺族に通知するという方式には変わりがない。

(13) 右(12)のように、靖国神社の祭祀は、戦前と変わらず、その合祀基準も基本的に変化はないが、前記のような実質的国家神道の解体・消滅に伴い、その祭祀を支え、その存立の基礎となっている宗教思想のうち、御霊信仰の系譜を引く観念は、そのままであるにしても、実質的国家神道に基づく部分には、一定の変容があるのではないかと推測される。すなわち、戦前において、戦没者が英霊として尊拝され、靖国神社に神として祀られたのは、国策の遂行過程において、国民一般のために犠牲となったという面もあるにはせよ、天皇の軍隊たる皇軍において、天皇が体現している大義の遂行過程で、天皇のため死に至ったというその忠節のゆえによるところが大きかったが、天皇の神性が否定され、実質的国家神道も国民一般の意識からは消滅した今、いかに靖国神社が、天皇によって創建され、またその創建の趣旨を今日に受け継いでいるとはいっても、戦没者が、同神社に神として祀られるゆえんをもっぱら天皇の神性とそれに対する忠節で基礎づけようとすることはできないし、またそうすることが戦没者遺族を含む一般国民の支持を得られるかは疑問であって、同神社の目的たる「国事に殉ぜられた人々を奉斎し」という場合、その国事殉難者とは、必ずしも、天皇のためと同義ではなく、国家のためという言葉本来の意義に近くなっていると考えられる。

(14) なお、英霊という観念は、実質的国家神道下において、天皇のために戦って死んだ者の魂ということであり、忠魂と同義であったこと、またそれは靖国神社の祭神ともほぼ一致していたことは、前記(9)のとおりであるが、実質的国家神道の消滅に伴い、靖国神社の宗教的性格の変化の有無はともかく、同神社と切り離してみた場合、英霊及びその顕彰という観念の宗教性には変容があることは否定しえない。すなわち、天皇の神性が消滅し、天皇に対する忠義、忠節を至上の美徳とする観念が一般的には失われた今、英霊を英霊たらしめ、それが尊拝されるゆえんを天皇への忠義、忠節で基礎づけられないことはいうまでもなく、とすれば、今日、英霊とは、一般的にいって、国家のために命を捧げた死者という意味での戦没者に対する美称として用いられているとみざるを得ず、それが、死者に霊が存在するとの観念を前提としているかのように思われる点では、宗教性を帯びる余地がないではないにしても、もはや、かつてのような実質的国家神道と結び付いた意味での宗教性は失われたというほかない。なお、日本遺族会及び「英霊にこたえる会」が、現在、靖国神社の国家護持や、同神社への公式祭祀を含む英霊の顕彰事業を積極的に維持、推進していることは前記2の(四)認定のとおりであるが、右両会が英霊顕彰事業を推進している理由を、検討しても、それが天皇のために忠義、忠節を尽したがゆえに、顕彰されるべきであるとしていることを窺わせる証拠はなく、それらの事業・運動の趣旨は、結局、戦没者が、国家の要請により、国家のために一命を捧げた以上、戦没者に対する国のかかわりと責任を明確化することを希求する趣旨から、国家の手で英霊として祀られ、それを通じて広く生き残った全国民に感謝を捧げられてしかるべきであると主張していると解される。

(三) 忠魂碑の歴史及び靖国神社との関係

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(1) 忠魂碑の起源と戦前の歴史

① 前記(二)の(1)認定のように、忠魂碑の「忠魂」という名辞は、幕末の殉難者を京都東山に祭祀するために発せられた明治元年五月一〇日付の太政官布告中に、祭祀の性格が忠魂を慰めることにあると記載され、殉国の将士と王事に尽くした者に対して「忠魂」をもって呼称したことに始まり、忠魂碑の起源も、幕末明治維新期における国事殉難者の慰霊のため建てられた招魂碑、招魂墓碑がその源流と考えられる。なお右碑の中で、遺体が実際に埋葬されたものが招魂墓碑であり、埋葬されていないものが招魂碑である。これらの碑は、招魂社、招魂場の建立と密接に結び付いており、京都大雲院内の招魂社の例のように招魂社といっても招魂碑があるだけのものもあり、またこれらの碑の前では招魂祭が行われることが多かったようである。なお「忠魂碑」と題された一番最初の碑は、現在岡山城外に存在している「官軍備州忠魂碑」であり、この碑は、明治元年、天皇軍のため勇戦した岡山藩の戦死者のため藩主が作らせたものであって、それには、戦死者二八人の姓名が一人一人記入されている。

② 明治七年の佐賀の乱から明治一〇年の西南戦争といった一連の士族の反乱で死亡した政府軍の死者のために各地で碑が建てられた。その例としては札幌護国神社境内にある「屯田兵招file_6.jpg之碑」、靖国神社境内に現存する「表忠碑」、名古屋の「名古屋鎮台戦死者紀念碑」、大阪中之島公園内の「明治記念標」などがあるが、この時期のものは、ほとんどが、招魂碑の系列のものであり、招魂墓碑の系列のものはほとんど見当たらない。その後、日清戦争(明治二七年〜二八年)、日露戦争(明治三七年〜三八年)の遂行に伴い、ことに日露戦争では、多くの戦死者が出たため、戦後、帰還、復員した戦友や遺族を中心に、戦死者の勲功を顕彰し、その霊を慰めるための多数の碑が全国に建てられ、忠魂碑建設ブームが到来した。このころまでの碑の建立の主体は、郡市町村や、地元の有力者あるいは仏教会等の民間団体等と様々であったが、後記のように、明治四三年に存郷軍人会が設立されてからは、もっぱら同会の分会が建立を推進し、また既設のものをも含めて管理するようになった。

③ 碑の名称は、明治初年は、「招魂碑」が圧倒的に多かったが、次第に「征清紀念碑」、「日清戦役従軍記念碑」、「日露戦役記念碑」、「彰功紀念碑」、「忠勇紀念碑」などの名称がみられるようになり、それが、日露戦争後は、「忠魂碑」という名称が多く用いられるようになり、それが定着していく。碑の名称としては、ほかにも「忠勇義烈頌功碑」、「赤心報国碑」などもみられたが、これらは大半が明治末期までで、大正、昭和期(昭和二〇年まで)は非常に少ない。そのほか「表忠碑」、「彰忠碑」は、明治期全般にみられるが、大正、昭和期にも僅かながらみられる。なお、「忠霊碑」、「英霊碑」などは、明治期には少なく、昭和期になってみられるようになったものであり、これは、「忠魂塔」、「英霊塔」などの塔を冠したものも同様である(なお「塔」は、もともとは「卒塔婆」のことであるが、時代の変化につれ、石塔は、「いしぶみ」たる碑になり、碑との区別は薄れ、これらの「塔」という名称のものも形態的には他の碑と特に変わらない。)。

④ これら碑の形状はまちまちであり、材料となる石材も、自然石をそのまま使い、ほとんど人工加工をしないものから、ある程度加工を施したもの、表面を滑らかに研磨し、人為的に規則正しい形にしたもの、その上に金属性の装飾をとりつけたものなど多岐にわたっているが、形状はさらに多様であり、自然石の価値そのままのものや、普通の角柱式のもの、先端が尖った角柱式のもの、円柱式のもの、尖塔式のもの、楼閣式のもの、砲弾を模したもの等種々様々であり、台石も、平たい自然石を二、三層積み重ねた簡単なものから石垣状のもの、方形の基檀を備えているもの、石段がついているもの等多様である。また、碑文についてみると、日清戦争までの碑文は、概ね標題だけでなく、碑の由来を記した文章が刻されていたが、忠魂碑という名称が定着した日露戦争後は、多くが、いわゆる標題碑文といわれるものであり、碑の表面に「○○碑」と縦書きに大きく陰刻され、その傍らに揮筆した者の姓名を小さく記し、裏面は、建立年月日以外は何も記さないのが普通であるが、戦没した兵士の名を録することもあった。なお、碑の揮筆者は、大体が陸軍の将官で、乃木希典、大山巌などが目につくが、在郷軍人会設立後は、その歴代の会長、副会長が書くことが多かった。

⑤ 在郷軍人会の発祥の由来は必ずしも明らかでないが、明治二〇年ころから各地で、軍人協会等の私設団体が相次いで生まれ、それが明治四三年一一月三日、在郷軍人会として統一的な組織として発足した。在郷軍人会の目的の一つに「会員相互の扶助及び慰藉の方法を講ぜしめること」という点があり、その一環である戦没者の慰霊・顕彰事業として、忠魂碑の建設が盛んに行われるようになった。その後大正四年の第一次世界大戦、大正七年のシベリア出兵等の海外出兵があり、それらの戦役事変の戦没者についての忠魂碑も各地に建てられたが、さらに昭和六年満州事変が勃発し、次いで第一次上海事変が起こって、遺族や、帰還した在郷軍人を中心に、各地に忠魂碑建設の動きが活発になり、それは昭和一二年の支那事変の発生によって一段と盛んになったが、後記忠霊塔建設運動に伴い、忠魂碑としての建設は下火になった。

(2) 招魂社、護国神社、忠霊塔の歴史と忠魂碑による招魂祭、慰霊祭

① 明治一二年に東京招魂社が別格官幣社たる靖国神社となったことは前記(二)の(2)認定のとおりであるが、従来種々の社号を用いてきた各地の招魂場も、明治八年、名称を招魂社と統一されて内務省の管轄下に置かれ、明治三四年には、それまで官費でまかなわれていた招魂社とそうでないものとを分け、前者を官祭招魂社、後者を私祭招魂社というようになった。これら招魂社の多くは靖国神社祭神中、その地方に縁故ある殉難・戦没者を祀るものであるが、日露戦争後、急速に広がった忠魂碑建設の動きに歩調を合わせる形で、私祭招魂社創建の動きも盛んになった。これに対し、内務省神社局は、明治四〇年二月二三日秘甲第一六号内務省神社局長依命内牒「招魂社創立ニ関スル件」で、「近時各地方ニ於テ招魂社ノ創立ヲ発企シ、往々出願ノ向モ有之候処、官祭私祭ヲ不問、招魂社ノ現存セル地方ニ於ケル戦病死者ハ之ニ合祀ヲ許スヘキ途有之候ニ付、新ニ設立スル必要無之。若シ既設ノ招魂社ナキカ、又ハ之レアルモ位置偏倚シ極メテ不便ヲ感スル等特設ノ必要アルト認メラルル場合ニ在リテハ、其事由及左記ノ事項ヲ具シ稟議相成度。」との招魂社設置基準を定め、かつ、その祭神は、靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えた。これは、招魂社の乱立による、運営、維持の困難ということを念頭においていたものとみられる。

② その後、昭和三年、政府は、招魂社創立内規を定め、招魂社の創立を、「市町村一円ヲ崇敬者区域トスルコト」として、一市町村一社を目指したが実効は挙がらず、その後も私祭招魂社は、正式な届出をしていないものも含め、次第に数が増えていった。そのような中で、政府は、昭和九年、「招魂社創立内規ニ関スル件」の通牒で、一府県一社の原則を立て、それが、昭和一四年の「招魂社ノ創立ニ関スル件」(同年二月三日発社第三〇号神社局長通牒)をもって、官祭・私祭の招魂社をすべて護国神社とし、二、三の例外を除いて各都道府県に一社に限ってこれを指定護国神社として創立を許可する制度の発足に結び付くが、このように、一府県一社という統一のとれた招魂社制度を確立し、それによって特定の神社に崇敬を集めようとする内務省神社局の方針に対し、それでは日常の参拝ということは困難になるし、広く戦没者の霊を郷土に祀るという趣旨がかなえられなくなるという面からの反対意見も根強かった。

③ このような背景のもとで、満州事変で戦没した人々を慰霊・顕彰するための碑・塔建設の動きも強まってきたため、昭和一四年一月、内務省神社局や、陸軍省、海軍省等が打ち合わせた結果、同年二月、「支那事変ニ関スル碑表(碑・塔の法令上の用語)建設ノ件」とする警保局長神社局長通牒を出し、内務省神社局は、一市町村を単位として一基に限り、忠魂碑等の記念碑又は戦没者の遺骨を納める忠霊塔のいずれかの建設を許可する方針を立て、さらに同月同じく「支那事変ニ関スル碑表建設ノ件」と題する陸軍省副官通牒が出され、陸軍省は、各市町村を単位とし戦没者の遺骨を納める忠霊塔の建設運動を積極的に支援する姿勢を打ち出した。そして、同年五月、戦死者の遺骨の合祀、忠霊の顕彰を目的として、陸軍、海軍、内務省その他の省庁を共同所管とする財団法人として大日本忠霊顕彰会(名誉会長はときの平沼首相)が発足し、以後は右会が中心となって忠霊塔の建設運動が進められた。

④ この大日本忠霊顕彰会は、発足と同時に精力的な活動を開始した。これに対し、仏教界は、それ以前から戦没者を合祀し、またその遺骨を納める施設を独自に建設してきたことなどもあって、積極的にその運動を支援する態勢をとったが、それに対して、神社側は、忠霊塔が参拝の対象となることによって、神社祭祀の純粋性が侵されあるいは国民の間で混乱が生ずることを懸念し、忠霊を祀る公式祭祀は、靖国神社、護国神社という国家的な祭祀としてなされるべきであるとしてこれに抵抗を示し、神社側と仏教界側との間に論争が起きたが、結局、昭和一四年九月に、大日本忠霊顕彰会幹部と神社界首脳との協議で、忠霊塔は、公営墳墓としての性格のものであること、それへの参拝は、参拝者の自由であり、宗派を超越したものとすること等で妥協が成立した。

(3) 忠魂碑の碑前での招魂祭、慰霊祭

① 前記のような忠魂碑等の碑は、招魂社と起源を同じくする面はあるものの、本来、参拝の目的物あるいは神社的な性格のものとして建立されたわけではなかったが、現実には、かなり早くから、その前で神式あるいは仏式の祭儀が行われていたようであり、明治三一年四月三日、埼玉県は、神社境内地の建碑について、内務省社寺局に「征清ノ役、従軍死亡者ノ為メニ神事トシテハ招魂碑、仏事トシテハ忠魂碑等ト称スル建碑ヲ参拝ノ目的物トナシ、神事又ハ仏事ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルノ主旨ヲ以テ、該碑建設ノ儀ヲ伺出タルモノアリ。右等建碑ヲ参拝ノ目的トナスコトハ、総テ不相成方ニ可有之哉。」との照会をし、これに対し、同省社寺局長は、同月二二日付局第一六号回答として「本年四月五日乙第六四六号ヲ以テ招魂碑忠霊碑等建設ノ儀ニ付御照会ノ趣了承。右等建碑ヲ参拝ノ目的物トナシ、神事又ハ仏式ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルハ許可難相成儀ト存候。」として、これら碑を参拝の目的物とすることには消極的な結論を出している。

② 右①のように、内務省神社局は、招魂碑、忠霊碑等を参拝の目的物とし、神事又は仏事によってその祭事をすることは許可できないとの回答を出していたが、在郷軍人会では、忠魂碑を建立した際、除幕式あるいはこれと共に招魂祭、慰霊祭等を行っていたほか、その建立後は、その前で、招魂祭、慰霊祭あるいは追悼会、供養会等が挙行される場合が多かった。これは、前記のように、内務省神社局の側では、戦没者の祭祀施設たる護国神社の創立を原則として一都道府県一社に限定するという方針であったのに対し、一般国民あるいは在郷軍人会等では、各地域の戦没者の霊を郷土である各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設けたいという希望が強かったこと、その場合、戦没者を記念する碑の前が一番招魂祭の祭場にふさわしいと考えられたことによる。

③ 右忠魂碑等の碑前での慰霊の祭式は、追悼会、供養会等の場合は仏式のものが多かったが、招魂祭、慰霊祭の場合は、神式あるいは神仏併用または神仏隔年交替で行われた。神式の場合には、忠魂碑等の碑の前に神霊の依代である神籬を立てて、その前に祭壇を設け、その都度招霊して祭典を持ち、神仏併用の場合には、神式の祭典に引き続いて仏式で各宗僧侶の読経による供養が行われた。神社界は神仏併用の招魂祭は好ましく思っていなかったが、現実には広くこれが挙行されていたようである。このような忠魂碑前での招魂祭あるいは慰霊祭は、満州事変以後、ますます活発になっていき、戦没者遺族等にとどまらず、一般住民及び児童生徒もそれに参列して参拝するようになり、昭和一〇年には、内閣書記官長の通達によって、国体の本義を明徴にし、これに基づいて教育の刷新をはかるため、児童生徒に忠魂碑への参拝をさせることが学校長に命じられ、以後、終戦まで、児童生徒の忠魂碑への参拝が励行されていたのはもとより、その前での拝礼も日常化された。

(4) 戦後の忠魂碑とその前での慰霊祭の状況

① 昭和二〇年一二月一五日、連合軍総司令部は、前記のような神道指令を発したが、政府は右指令を受けて、昭和二一年一一月、「公葬等について」の通牒を発した。右通牒は、その一項から三項までにおいて、地方公共団体等が慰霊祭等宗教的行事にどこまで主催、関与しうるか、戦没者に対する葬儀等に対する地方公共団体等の援助等の限界等を定めた後、その四項において、

「忠霊塔、忠魂碑その他戦没者のための記念碑、銅像等の建設、並びに軍国主義者又は極端な国家主義者のためにそれらを建設することは今後一切行わないこと。現在建設中のものについては直ちにその工事を中止すること。なお現存するものの取扱は左によられたい。

イ 学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。

ロ 公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものはこれを撤去すること。

前項のことは、戦没者の遺族が私の記念碑、墓石等を建立することを禁止する趣旨ではない。」

とし、またその五項において、

「一般文民の功労者、殉職者等のための記念碑、銅像等を建設することや、その保存事業を行うことは差支えない。」としている。

さらに政府は、昭和二一年一一月二七日、警保局長通牒「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」を発したが、その内容は、以下のとおりである。

「本月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒「公葬等について」の内第四項中現存する忠霊塔、忠魂碑、銅像等の措置については左記に拠られたい。

一  学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。

二  公共の建造物及びその構内または公共用地に在るもので明白に次のような軍国主義的又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは撤去する。

イ  日本天皇は其の祖先、家柄及び特殊なる起源の故を以て他国の元首に優越するとの教義

ロ  日本国民は其の祖先、家柄又は特殊の起源の故を以て他国民に比し優越し居れりとの教義

ハ  日本諸島は特殊の起源の故を以て他国に比し優越し居れりとの教義

ニ  日本国民を欺瞞し以て侵略戦争に導入し又は他国との紛争解決の為道具としての武力行使を賛美するに役立つ其の他の教義

単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者の為の碑であることを示すに止るものは原則として撤去の必要はない。

(三項以下略)

② このように神道指令及びそれを受けた日本政府の通牒の趣旨は、忠魂碑等でも、軍国主義、超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするもののみを規制の対象とするものであったが、各地では、占領軍による処罰等をおそれ、これら通牒等に過剰に対応し、学校構内等にあるもののみならず、公共建造物及び公共用地に立てられていた忠霊塔、忠魂碑の多くが撤収された。しかし、これらの碑は、撤収されたとはいっても、すべて破壊されたわけではなく、地中に穴を掘って埋めたり、あるいは目立たない私有地(寺院や神社)に移転して維持を図ったり、碑文や碑銘の模様替え(平和塔、供養塔等)をして維持を図ったりしたものも多かった。

③ 昭和二七年四月二八日対日講和条約が発効して、連合国の日本占領が終了したのに伴い、戦没者の慰霊・顕彰の営みも自由になり、「忠霊塔・忠魂碑等の措置について」によって撤収させられた既設の忠霊塔、忠魂碑の類いが相次いで復元、再建され、また、それと平行して新規の建設も続々と計画、実行されるようになった。建碑の主体は、概ね遺族会と戦友会であり、それを地方公共団体が側面から援助するというのが一般的なやり方であったが、中には自治体の方が主体となって、進められた事例も見受けられた。この時期のものは地域単位のほかに、戦没地、部隊、艦艇等単位でも数多く建てられている。

また、この時期の碑や塔も素材や形状が非常に多岐にわたり、石材も自然石のままのものや、ある程度加工を施したり、表面を研磨して規則正しい形にしたものなどがあり、また形状も角柱式、円柱式、尖塔式、楼閣式さらに五輪塔を模したもの、またパゴダ式のもの等種々様々である。なお、碑銘の揮筆者は、旧軍人もあるものの数はすくなく、圧倒的に政治家が多く、そのほかでは、神職・僧侶や文化人が多い。碑文は、口語体が多く、また碑銘については、「慰霊碑」、「慰霊塔」が圧倒的に多いが、ほかにも「招魂碑」、「彰忠碑」、「英霊碑」、「雄魂碑」、「彰魂碑」、さらに「殉国碑」「殉国慰霊碑」、「殉国英霊碑」などの碑銘もみられ、また「忠魂碑」、「忠霊碑」等と銘されたものもあるなど、多岐にわたっている。

文部省は、このような建碑状況のもとで、昭和二七年九月一九日、「戦没者の記念碑等について」(地調第三六号富山県総務部長宛文部省調査局長回答)を出し、「宗教施設又は宗教的行事を伴う施設でない限り、公の機関が殉職者(戦没者を含む)等の記念碑等を建設することは、政教分離の原則に抵触しないものと考える。ただし、「忠霊塔」、「忠魂碑」等誤解を招きやすい語はなるべく避けられたい。」とし、その後も同旨の回答を繰り返しているが、この趣旨は必ずしも守られず、その後に建設された碑の中にも「忠霊塔」、「忠魂碑」等と題されたものも多かった。なお、これらの碑の前では、建設当初から、神式または仏式あるいは神仏合同形式による戦没者慰霊祭が営まれる場合が多く、それは現在に至るまで続いている。

④ 碑、塔調査結果の概略

箕面市は、昭和五八年二月一日を基準日として全国三二五五市町村を対象に行った碑・塔調査結果に基づく合計二六九九市町村の回答結果により、次の集計を得た。すなわち、戦争に起因して建立された碑・塔は二六九九市町村において合計一万三四四基が現存し、その内訳は、忠魂碑四〇八八基、慰霊碑九二七基、忠霊塔六八五基その他であり、そのうち昭和二〇年八月一五日以降に建立されたものは、忠魂碑九八七基、慰霊碑八三〇基、忠霊塔四一四基であること、また、これらの碑・塔に関し、追悼式・供養祭等の名称のいかんにかかわらず、戦没者・戦争犠牲者等に対して行われる慰霊・顕彰のための慰霊祭が実施されているものは六〇五二基(約58.5パーセント)あり(不明三一五〇基)、そのうち慰霊祭の形式の判明している碑・塔五四四九基の内訳は、仏式二五八九基(約47.5パーセント)、神式一九八五基(約36.4パーセント)、神仏合同方式二七八基(約5.1パーセント)、キリスト教式一五基(約0.3パーセント)、無宗教方式五八二基(約10.7パーセント)であり、これを忠魂碑二二六七基に限ってその内訳をみれば、仏式一〇九七基(約48.4パーセント)、神式八六〇基(約37.9パーセント)、神仏合同方式一二六基(約5.6パーセント)、キリスト教式二基(約0.1パーセント)、無宗教方式一八二基(約8.0パーセント)となっていること、慰霊祭の行われている六〇五二基のうち、慰霊祭の主催者は、主なものは、遺族会が一五七〇基(約26.0パーセント)、市町村が六六〇基(約10.9パーセント)、自治会が五七二基(約9.5パーセント)、奉賛会が三六五基(約6.0パーセント)、社会福祉協議会が三四三基(約5.7パーセント)、これらの主催者を含む複数の主体による共催が四三六基(約7.2パーセント)、その他が八〇八基(約13.3パーセント)、主催者不明が一二九八基(約21.4パーセント)であり、これを忠魂碑二四八五基に限ってその内訳をみれば、遺族会が七〇一基(約28.2パーセント)、市町村が二六四基(約10.6パーセント)、自治会が二四〇基(約9.7パーセント)、奉賛会が一六四基(約6.6パーセント)、社会福祉協議会が一五八基(約6.4パーセント)であり、これらの主催者を含む複数の主体による共催が一八二基(約7.3パーセント)、その他が二七〇基(約10.9パーセント)、不明が五〇六基(約20.4パーセント)であること、慰霊祭が碑・塔の前で実施されている割合は、忠魂碑二四八五基中一一八八基(約47.8パーセント)、慰霊碑五五一基中二五三基(約45.9パーセント)、記念碑二一五基中九五基(約44.2パーセント)、忠霊塔四八三基中二三四基(約48.4パーセント)、慰霊塔四二〇基中二三九基(約56.9パーセント)であり、全体としてみると、慰霊祭の行われている碑・塔合計六〇五二基中二九四二基(約48.6パーセント)につき碑・塔の前で慰霊祭が実施されていること、以上のとおりである。

⑤ 右調査は、箕面市が、全国の市町村に「碑・塔に関する調査票」を配布し、各市町村からの回答結果を集計する方法で行われたが、甲第三四二号証(大江志乃夫作成の鑑定書)が指摘するとおり、調査主体が箕面市という訴訟当事者であり、また、調査票の記載も正式な公文書として作成されたものではないうえ、調査票の様式等に照らしても記載内容の正確性が必ずしも十分に担保されているとはいいがたいこと、さらに右調査は、全国の市町村から回答を得たものではなく、碑・塔が相当数存在すると考えられる東京二三区を除外していることなど、種々の面で誤記入等の存在する可能性もあり、必ずしも全国のこれら碑・塔の状況を正確かつ客観的に示すものとはいいがたい面があるが、他方、右調査内容は比較的単純な事項で、記載者の主観に左右されるようなものではなく、また、その調査範囲も右一部を除いてほとんど全国の都道府県にわたっており、その調査対象がかなり広範囲かつ大量であることに鑑みれば、内容にある程度誤記入等があるとしても、総合的な平均値としてみた場合、この種の碑・塔のおおよその実態と傾向を知るうえでは、一つの参考になると思われる。

5 憲法八九条前段及び同法二〇条一項後段の解釈

(一)  原告らは、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」とは、広く宗教に関係ある事業ないし活動そのものを指すと解すべきである旨主張する。

(二)  しかしながら、憲法八九条前段、二〇条一項後段の政教分離規定は、憲法二〇条一項前段の定める信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。したがって、右政教分離規定は、国が財政面・社会面、文化面において宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとする趣旨ではなく、国が特定の宗教団体に財政的・社会的・文化的な援助をするときには、国が特定の宗教を選別し、さらには国教を認めるという事態が生じ、ひいては信教の自由を侵害する結果に至ることに鑑み、右援助・特権の付与を禁止しているものと解される。

憲法八九条は、このような観点から、その前段においては、宗教上の組織若しくは団体については、その事業の如何を問わず、公金その他の公の財産を当該組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出すること等を禁止しているのに対し、その後段においては、公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業については、その主体如何にかかわらず事業そのものに着目して財産上の援助を禁止しており、また、同法二〇条一項後段も、同法八九条前段と同様に、その事業の如何を問わず、宗教団体に対し、国・地方公共団体が特権を付与することを禁止していると解される。

(三)  そして、前記のような各規定の趣旨、文言、体裁からすれば、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」とは、信仰について意見の一致する者によって結成された宗教的活動を目的とする団体と解するのが相当であり、以下、このような観点から市遺族会が右にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」にあたるか否かについて検討する。

6  日本遺族会とのつながりにおける市遺族会の宗教団体性

原告らは、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、日本遺族会と性格を同じくするものであるところ、日本遺族会は、靖国神社を崇拝するという点で共通の意見を持った遺族の集合体であり、同神社の教義とこれに対する信仰を広める宗教的活動を目的とする団体であるから、憲法八九条前段、二〇条一項後段につき、前記5の(三)のような解釈をとっても、右各法条にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」に該当する旨主張するので、この点につき検討する。

(一)  日本遺族会の宗教団体性に関する事実関係

前記1に認定、判断したとおり、日本遺族会と各都道府県遺族連合会及び各市町村遺族会は、全体として共通の目的を有する一体の組織であり、市町村遺族会の一つである市遺族会も、日本遺族会の組織の一部たる一地方支部と解され、その意味で日本遺族会の団体としての性格は、基本的に市遺族会の性格となっているというべきところ、前記2及び4の(一)、(二)認定の各事実によって認められる日本遺族会の性格、活動状況、同会と靖国神社との関係及び靖国神社の性格等の概要及びその特質は、以下のようなものである。

(1)  日本遺族会の性格、活動状況等

日本遺族会の事業活動を通観すると、同会の前身である遺族連盟のころは、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁する決議をするなどしていたとはいえ、その事業の中心は、もっぱら遺族の経済的な困窮の改善を目指す遺族援護に関する各種活動にあったこと、また昭和二八年に発足した日本遺族会もその当初から、靖国神社の国家護持を初めとする英霊の顕彰運動も事業目的の一つにしていたとはいえ、初期の事業の中心は、公務扶助料の増額等遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くことにあったこと、その後、同会の運動の成果もあって、遺族に対する経済面の処遇が次第に改善されるにつれ、遺族の精神的慰藉の面を持つ英霊顕彰事業(慰霊事業を含むことは前記のとおり)にも重点が置かれるようになってきたこと、右英霊顕彰事業の中心は、昭和三七年ころまでは、靖国神社・護国神社の例大祭等への奉讃や、各護国神社での慰霊祭執行、靖国神社参拝に関する業務等であったが、それ以後は、靖国神社国家護持や、公式参拝実現運動が最も中心となる運動になっていること、日本遺族会の主催する慰霊大祭は、靖国神社において、靖国神社の祭式に従った形で行われていること、もっとも、このように、日本遺族会は、次第に英霊顕彰事業にその事業の重点を移してきたとはいえ、戦没者遺族に対する各種給付金の増額、支給範囲の拡大等の運動も、同会の重要な事業として継続しているほか、最近では、平和記念総合センターの建設構想や、原爆被害者、一般被災者らの処遇改善問題への取り組みも、その事業方針に含めていること、なお、前記のように、同会の英霊顕彰事業の中心は、靖国神社との関係にあるとみられるが、それに尽きるものではなく、同事業の一環として、外地遺骨収集の完全実施及び慰霊塔の建立の推進、戦跡巡拝実施、全国戦没者追悼式国費参加者の増員、戦没者の遺影・遺品などの収集、遺書などの記録保管と公開や、戦没者叙勲の実施あるいは英霊の日制定を目指す運動等もその中に含まれていることが明らかである。

(2)  日本遺族会と靖国神社との関係

次に日本遺族会と靖国神社とのつながり、かかわり合いについてみると、日本遺族会の前身である遺族連盟の結成にあたっては、当時の靖国神社の嘱託であった大谷藤之助が、各地方を巡歴して、遺族の組織結成の勧奨をするなど、その発足に尽力し、また、その後も、日本遺族会の理事と靖国神社の責任役員との間には、交流関係が続き、日本遺族会は、その成立の当初から、靖国神社と密接なつながりを持っていたこと、さらに、日本遺族会は、遺族連盟時代の昭和二七年一一月、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することを決議して、政府と国会にその旨の要望書を提出し、さらに日本遺族会として発足後まもなくの昭和二八年一一月には、日本遺族会及び各都道府県の遺族会の会長らが理事となって靖国神社奉賛会が設立され、昭和三一年ころからは、日本遺族会独自で、靖国神社法案の草案の検討を開始するとともに、毎年の全国戦没者遺族大会で、靖国神社の国家護持に関する決議や、またそれに基づく署名運動などを繰り返し、そのような運動や、遺家族議員協議会を通じての運動の結果、昭和四四年には、靖国神社法案の国会提出に至り、また、右法律の可決、成立は、当面客観的諸情勢から難しいとみるや、運動方針を一時変更し、靖国神社の公的地位向上を主目的とする全国民的な英霊顕彰組織の結成を呼びかけ、日本遺族会が中心となって「英霊にこたえる会」を結成し、以後は、右会と協力関係を保ちつつ、引き続き、靖国神社公式参拝の要求等の靖国神社の公的地位向上の運動を続けていることが明かである。もっとも、これら日本遺族会が、靖国神社と深いかかわり合いを持ち、その国家護持運動等を進めるゆえんが、同神社の神社としての隆盛、発展あるいは同神社の教義とこれに対する信仰の普及、拡大自体を目指しているとは必ずしも解されず、要は、戦没者が国家のために一命を捧げた以上、戦没者に対する国のかかわりと責任を明確にし、その遺族に対しては、国家として公的な慰藉を示すべきであり、そのための戦没者の慰霊の場としては、歴史的沿革からも、遺族の心情からも靖国神社がもっともふさわしいという趣旨に出ているものと解される。

(3)  靖国神社の性格及びその特質

また、靖国神社の性格、宗教的特質としては、以下の事実が認められる。

①  靖国神社の起源は、幕末から明治維新にかけての国事殉難者を祀った招魂社にあるが、靖国神社は、明治一二年、東京招魂社の社号を改め、別格官幣社として発足したものであり、その創建の趣旨は、天皇のために戦った戦没者を祀ることにあった。また、同神社の創建の趣旨及び祭祀の背景となっている宗教思想は、人間の死後も霊魂が存在するとの観念のうえに立ち、それを招き降ろして神霊として祀るという招魂の思想に基づく面と、天皇のために戦い、死んだ者を、他の戦死者等と区別し、特に神霊として祀るという天皇崇拝を主軸とする実質的国家神道の思想に基づく面を持ち、この両者が渾然一体をなしていたものであり、それを端的にいうならば、その宗教思想は、「忠魂」を称え、慰めることにあったといえる。

②  このように靖国神社は、その祭祀の面でも、それ基礎づける宗教思想の面でも、まぎれもなく特定の宗教施設であったが、制度的・実質的国家神道の浸透につれ、戦没者の慰霊すなわち靖国神社への合祀というように受け止められるようになった。なお、「英霊」という言葉は、そのような国家神道の背景下で、戦争において積極的に戦い、死んだ戦没者の霊魂を指すものとして使われるようになったものであり、実質的には、忠魂と同義であって、その顕彰の中心は、靖国神社に祭神として祀られることにあった。

③  敗戦とそれに伴う制度的国家神道の解体により靖国神社の国家的祭祀施設としての地位にも変化がみられるのはもちろんであるが、同時に、その宗教思想についても、前記のような実質的国家神道に基づく面は、一部変容したものと考えられ、今日、同神社に英霊として合祀されるゆえんは必ずしも天皇のために忠義、忠節を尽したからというよりは、国家のために死亡した者を祀るというような形に変わってきていると思われる。また、右靖国神社の宗教思想の変容の有無はともかく、英霊という言葉の宗教性には、変容があることは否定しえない。すなわち、英霊という言葉は、かつて忠魂と同義であり、天皇のために忠義を尽して死んだ者の魂という意味であって、その面で実質的国家神道及び靖国神社の宗教思想と密接に結び付いた言葉であったが、実質的国家神道の消滅に伴い、今日、それは国家のために命を捧げた死者という意味での戦没者に対する一般的美称として用いられているとみざるをえず、右言葉自体の宗教性は希薄になっていると解される。

(二)  日本遺族会の宗教団体性についての判断

日本遺族会が靖国神社の崇敬者団体であると考えられる余地があり、また同会が靖国神社の教義とこれに対する信仰を広める等宗教とかかわり合いのある活動を行っているとみられないではない点としては、次の諸事実が挙げられる。

(1)  靖国神社規則との関係

靖国神社規則三条には、同神社の目的として「本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他神社の目的を達成するための業務を行うことを目的とする。」との規定があり、靖国神社の崇敬者(信者・信徒)は、同神社に祀られている戦没者の遺族であることが明らかであるところ、日本遺族会の会員である遺族は、旧軍人・軍属等の遺族であって、その戦没者の大多数が、靖国神社に祭神として祀られていると考えられること、また、それらの会員は、靖国神社の国家護持運動等、靖国神社の地位向上につながる日本遺族会の方針を積極的に支持しあるいは少なくとも黙示的に支持していると考えられること、日本遺族会は、その前身である遺族連盟を含め、その発足の当初から、靖国神社と密接な人的つながりを有すること。

(2)  靖国神社の国家護持運動等と日本遺族会

日本遺族会はその前身である遺族連盟時代の昭和二七年一一月に、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することを決議して、政府と国会にその旨の要望書を提出して以来、毎年の全国戦没者遺族大会で、靖国神社の国家護持に関する決議や、それに基づく署名運動などを繰り返し、そのような運動や、遺家族議員協議会を通じての運動の結果、昭和四四年には、日本遺族会が実質的な推進母体となって、靖国神社法案の国会提出に至り、また、右法律の成立が、当面難しいとみるや、運動方針を一時変更して、全国民的な英霊顕彰組織の結成を呼びかけ、日本遺族会が中心となって「英霊にこたえる会」を結成し、以後は、右会と協力関係を保ちつつ、引き続き、靖国神社公式参拝の要求等を靖国神社の公的地位向上の運動を続けていること。

(3)  日本遺族会の英霊顕彰事業の内容等

日本遺族会は、「英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業」(以下、これらを「英霊顕彰事業」という。)ということを遺族の処遇改善、福祉の向上と並んで、その主要な事業活動、運動方針にしているところ、現在における右英霊顕彰事業の内容としては、外地遺骨収集、戦跡巡拝、戦没者の遺骨・遺品の収集等必ずしも靖国神社・護国神社に関連しない活動もあるものの、やはりその主体は、靖国神社、護国神社への参拝の推進とその護持・奉讃、中でも靖国神社の国家護持、公式参拝実現を目指す運動が主要な内容になっていること、また、日本遺族会の英霊顕彰事業の将来的な目標は、靖国神社を国営化あるいは公的な参拝の場とし、それについて全国民の合意、支持を得ることにあること、また、右日本遺族会主催の慰霊大祭は、靖国神社において、かつ靖国神社の祭式にしたがった形で行われるなど、その英霊の顕彰の内容は、現実の内容面においても、そのかなりの部分が靖国神社及びその地方分社的性格を有する護国神社の護持や、その祭式にしたがった慰霊行事が中心となっていること。

(4)  英霊顕彰事業の性格、宗教性

右(3)に述べたとおり、日本遺族会の英霊顕彰事業は、靖国神社あるいは護国神社の護持等の運動並びにその祭祀と密接に結び付いたものであるが、それは「英霊の顕彰」という観念が持つ歴史的性格に由来する面も大きいと考えられること、すなわち前記認定のように、「英霊」という言葉は、必ずしも戦死者の霊一般を指すものではなく、本来、実質的国家神道のもとにおいて、天皇のため(それはすなわち国家のためであった。)に、忠義、忠節を尽して死に、それゆえに靖国神社に神として祀られた戦没者の霊魂ということを指す言葉であり、「忠魂」という語と同義であって、それは形式的・実質的国家神道の体制下で、一般化した用語であり、また、その顕彰ということも、単なる死者の追悼というにとどまらず、靖国神社に祭神として祀られることを本義とするものであったこと、もっとも、制度的・実質的国家神道の浸透につれ、英霊という呼称は、広く戦没者の霊一般を指すものと受け止められるようになり、また、戦没者の霊魂の帰一するところは、靖国神社のほかにないとの観念が一般化するに伴い、靖国神社における英霊の顕彰こそが真の意味の戦没者の追悼・慰霊であると考えられるようになったうえ、制度的国家神道の解体とそれに伴う実質的国家神道の消滅に伴い、今日、英霊という観念自体の宗教性は、希薄になっていることはたしかであるが、しかし、少なくとも日本遺族会あるいは「英霊にこたえる会」が英霊の顕彰という場合、そこには種々の活動が含まれるにしてもその中心的な活動は、靖国神社の国家護持等にしても、靖国神社・護国神社等の宗教行事への奉賛にしても、戦没者の霊を神道の宗教法人たる靖国神社に神として祀り、あるいは祀るべきであるとする宗教思想を基盤とするものであって、このような英霊の顕彰という観念のもつ歴史的性格が、日本遺族会の英霊顕彰事業と靖国神社とを結び付ける大きな要因になっていることは否定しえず、その意味で、日本遺族会の行う英霊顕彰事業は、本質的に靖国神社の祭祀及びその宗教思想と親和性を有し、結び付きやすい性向を有すること。

しかしながら、以上の諸点は、日本遺族会が宗教団体である原告らの主張を肯認するに足る事情ということはできない。その理由は、以下のとおりである。

(1)  たしかに靖国神社規則三条の規定からみる限り、日本遺族会は同神社の祭神である戦没者の遺族の団体としての性格を持つようにみえるけれども、その由来、経緯を考えると、そもそもの日本遺族会の発足の経緯は、広い意味での戦争犠牲者の遺族一般を対象として組織されたものではなく、もっぱら旧軍人、軍属等の遺族の集合体であり、このような遺族の肉親たる戦没者は、戦前の国家神道体制下及び戦後の一括合祀あるいは個別合祀で、好むと好まざるとにかかわらず、いわば自動的に、靖国神社に祭神として祀られたものであって、かつそれが戦没者にとっても遺族にとっても名誉であり、真の慰霊であるとされてきたこと、今日でも日本遺族会に結集する遺族の大多数は、靖国神社を信奉する者が多いことは推測に難くないが、その遺族らの同神社を信奉するゆえんはもっぱら、右のような歴史的経緯に基づくものと認められ、みずから進んで、その教義に対する信仰を求め、そこに慰霊の場を求めるに至ったものではなく、また制度的国家神道の解体に伴い、靖国神社の国営祭祀施設としての性格が失われ、また実質的国家神道も消滅した今、右のような遺族らと靖国神社との結び付きもかつてのような強固さを失っていると考えられること、なお、靖国神社を信奉する戦没者の遺族らの意識としては、その神社としての宗教的性格、その教義に対する信仰のゆえに同神社を信奉するというより、むしろ親しい肉親に会いに行くという心情を持っているものが多いと思われること(もっとも、その場合でも靖国神社は、その肉親をまさに神として祀る神社である以上、その参拝の宗教性は否定しうべくもないのであるが、しかし、この点は、同神社の崇敬者といえるか否かについての判断にあたっては考慮されるべき事情であると思われる。)、さらに、日本遺族会は、結果的にみて、靖国神社規則三条にいう「靖国神社を信奉する祭神の遺族」が集合した団体としての性格を持つものではあっても、そのような崇敬者団体たることを目的として発足したものでないことはもちろん、個々の遺族らにおいて、肉親が国の手によって、かつ、好むと好まざるとにかかわらず、そこに祀られており、それゆえにそこに参拝するという意識を超えて、靖国神社の教義を信じ、同神社の発展を積極的に願うという気持がどこまであるかは極めて疑問であることなどを総合的に考慮すれば、結局、右規則の規定をもって、日本遺族会が靖国神社の崇敬者の団体であるとまでいうことはできない。また、日本遺族会と靖国神社との人的なつながりの深さについては、前述のとおりであるが、靖国神社創建の趣旨は、本来的に、戦没者の霊を祀ることにあり、特定の地域に結び付いた氏子等を支持基盤とするものではない以上、制度的国家神道が解体した戦後において、同神社の存立を支えるものとしては、そこに神として祀られている戦没者遺族をおいてはなく、また、そのような事情もあって、前記のような靖国神社規則が制定されるに至ったのではないかと考えられるところ、一方、日本遺族会及びその前身たる遺族連盟も、旧軍人、軍属の遺族という、戦前の国家神道体制下であるいは戦後の一括合祀で、そのほとんどが靖国神社に合祀された戦没者の遺族が結集した団体という性格を持つのであって、このように両者は、いわばその母体集団を共通にする関係に立ち、事の是非はともかく必然的にある程度のつながり、かかわり合いを伴いやすい関係にあると考えられるのであり、これらの事実に照らせば、日本遺族会の発足当初あるいはその後の同会の組織構成の上で、靖国神社と密接な人的つながりがあることをもって直ちに日本遺族会が靖国神社と組織的同一性を有し、あるいはその崇敬者団体であることを基礎づける事情とすることはできないというべきである。

(2)  日本遺族会の靖国神社国家護持運動あるいは公式参拝要求運動等をみると、あたかも、同会が、靖国神社の隆盛あるいはその教義に対する信仰の発展、拡大それ自体を会の目的としているかのようにも受け止められる要素がないではないが、日本遺族会が、靖国神社の国家護持あるいは公式参拝運動等を行っている趣旨が、戦前のような同神社の国営祭祀施設としての性格の復活あるいは同神社の宗教思想の国教化を目指すものとは解されず、要は、国家の要請により、国家のために身命を賭して戦地に赴き、国家に殉じて死亡した戦没者に対し、国として公的に慰霊する場を設けないのは、そのような戦死者に対し、非礼であるという考えに基づくものと思われるし、その場を靖国神社とすることについても、そのような戦没者が、戦地に出征するに際し、死んだら靖国神社で会おうということを相言葉のようにして赴いていったという歴史的経過や、戦没者遺族らの多数にとって、靖国神社は、今日もなお身近な慰霊の場と考えられていること、さらに、国としても前記のような相言葉のもとに、出征者を戦争に送り出しながら、しかも靖国神社自体は依然存続しているにもかかわらず、国家体制が変わったからといって、その約束を守らないのは、国家の死者に対する背信であるとの意識等に基づくものと考えられるのであって、事柄を客観的にみた場合、これらの活動が靖国神社自体の隆盛、発展を目指し、あるいは同神社の教義に対する信仰の普及、拡大を図る意図の下になされているとは認めがたい。

(3)  日本遺族会は、現在、英霊の顕彰事業を主要な活動目的とし、現実の事業としているとはいえ、その発足の経緯は、戦没者遺族等の困窮の中で、その処遇改善、福祉の向上を目指して結成された団体であり、本来、英霊の顕彰事業自体を目的として設立された団体ではなく、現実の活動面も当初は、ほとんどもっぱらそのような事業のみであり、かつ、その運動の成果もあって、各種遺族援護法の成立等遺族の処遇改善の措置が図られるに至ったと認められること、かつ、このような遺族の処遇改善、福祉向上の事業は、今日も、なお、日本遺族会の事業の目的とされているばかりでなく、現実にも英霊顕彰事業と並ぶ、日本遺族会の主要な事業となっていること、また、右英霊顕彰事業の内容も、靖国神社に関係する部分が多いとはいえ、決してそれに尽きるものではなく、外地での戦跡巡拝や遺骨収集等の活動とそれへの協力、慰霊塔の建立の推進、戦没者の遺骨・遺品等の収集・保管、戦没者叙勲の完全実施、「戦没者慰霊の日」(のち「英霊の日」)等必ずしも靖国神社あるいはそれと系列を同じくする護国神社等に関係しない部分もそれに含まれているのであり、これらを考え合わせれば、日本遺族会全体の事業の中で、これら靖国神社等に関係して宗教的性格を帯びる活動の割合が必ずしも絶対的に高いとはいえないと考えられる。そのうえ、日本遺族会が、靖国神社に関係する部分を含む英霊顕彰事業を会の活動内容としている経緯、動機、目的を検討しても、それが靖国神社の隆盛あるいはそれを通じての靖国神社の神社としての発展あるいはその信仰(宗教思想)の普及それ自体を目的としているとは認めがたく、むしろ、戦没者の集合体としての日本遺族会の活動の一つとして、戦没者の追悼行事を行うべきであり、かつそれが遺族の精神的慰藉につながるという方針に基づくものであり、かつ靖国神社をその慰霊の場の中心に置いたことも、かつての制度的・実質的国家神道体制下で、死んだら靖国神社に神として祀られると信じて戦地に赴いた戦没者及び死を名誉の死として称えられていた遺族の心情を思えば、客観的にみた事の当否はともかく、無理からぬところがあると考えられるのであり、これら英霊顕彰事業の経緯、動機、目的からすると、日本遺族会の右事業をもって、同会が主として宗教的活動を目的とする団体であるとみることはできない。

(4)  さらに、英霊及びその顕彰という観念の歴史的性格及びそれが本質的に靖国神社と結び付きやすい性格を有することは前記のとおりであるが、しかし、敗戦に伴う神道指令とそれに引き続く天皇の人間宣言によって制度的国家神道が解体し、実質的国家神道の消滅した今、これら英霊及び英霊の顕彰の宗教性が希薄となっているとみられることは前記のとおりであり、このように英霊の顕彰ということ自体は、今日必ずしも宗教的性格を持つ観念ではないとの点からみても、日本遺族会が英霊顕彰事業を行っていることから、直ちに同会の宗教団体性を認めることは困難であるといわなければならない。

(5)  もっとも、かつての制度的国家神道の時代に生まれ育ち、そのもとで教育を受けた人々にとって、意識は、一朝一夕に変わるものではなく、それらの人々の中には、靖国神社を依然、国家的な祭祀施設と受け止め、その宗教的性格を、かつてのように天皇の神聖性に結び付けて考え、それゆえに絶対的な尊敬を捧げ、英霊という観念についてもその延長線上のものとして受け止めている人々もいるであろうことは想像に難くなく、また、前記認定のように、実質的国家神道はその中に、封建的忠誠の観念や、日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝観念をもこれに結合させ、それによって、孝を家父長制的家族道徳の基本とし、それを家族国家観にそのまま拡大したという面を持つのであって、これらの家父長制的家族道徳やその国家的延長線上にある、国家のために尽くすことが人間の至上の生き方であり、その死は、至上のものとして称えられるべきであるといった観念は、未だ多くの人々の意識の中に残存していると考えられ、これらが、天皇の神聖性、絶対性が崩壊した今日でも、戦没者の霊を英霊と呼び、その靖国神社における顕彰が叫ばれる一つの要因になっていると考えられるが、前記のように、靖国神社及び英霊の宗教的性格を戦前と同じような意識で受け止める考えかたが、国民の一般的な意識とは認めがたいし、また、右のような国家至上主義ともいうべき考え方も、その宗教性を基礎付けていた天皇の神聖絶対性と切り離してみた場合、もはや、宗教というより、政治的、道徳的観念、価値判断の領域に属するというほかない。

また、靖国神社が、かつては制度的・実質的国家神道の中核的施設であり、軍国主義、超国家主義思想の拡大に寄与する役割を果たし、そのような国家神道に支えられた軍国主義・超国家主義体制の赴くまま引き起こされた今次の大戦が、隣接のアジア諸国等の人々に甚大な被害をもたらしたことはもとより、国内的にも、靖国神社に合祀されるような戦没者のみならず、原爆被害者や直接戦地となった沖縄の住民ら多数の戦争被災者・犠牲者を出したこと、また、直接の戦争犠牲者以外にもそのような体制下において、その思想・信条のゆえに思想的・宗教的弾圧を受け、死を余儀なくされた人々も決して少なくはないこと、これらの人々及びその遺族らにとって、国家神道を基盤として拡大していった超国家主義・軍国主義の忌わしい思い出は容易に消え去るものではなく、それらの人々の中には、そのような体制と密接に結び付いていた靖国神社に対し、前記のような戦没者遺族らとは全く相反する認識、感情を持つ人々もいることを考慮すれば、そのような人々にとっては、あたかも日本遺族会が、戦前のような靖国神社の国営祭祀施設としての地位の復権や国家神道の実質的復活を目指す一つの宗教団体であるかのような観を呈し、さらにそのような運動等を通じ、現実にも、再び同神社を中心として国家神道が復活し、軍国主義へと結び付いていくのではないかとの懸念を抱くこともあながち無理からぬ面もあると考えられる。

しかしながら、前記のとおり、客観的にみれば日本遺族会の右活動は、靖国神社を戦前のような国家神道の中心的施設に復活させるとか、軍国主義、超国家主義を鼓吹することを目指すものとは解されず、むしろ前記の歴史的経緯に基づく遺族の素朴な心情を基礎とするものと思われるから、結局、これらの点も、靖国神社の宗教的崇敬及び英霊の顕彰という観念や日本遺族会の右活動の宗教性に関する前記判断を覆すに足るものではない。

以上の諸事実を総合考慮すれば、日本遺族会は、原告ら主張のように、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を持った遺族の集合体であり、同神社の教義とこれに対する信仰を広める宗教的活動を目的とする団体であるといえないことは明らかである。

したがって、日本遺族会をもって、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」にあたるとすることはできないから、その支部である市遺族会も、右日本遺族会の支部として、「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」にあたるということはできない。

7 市遺族会の目的、事業活動と宗教団体性

原告らは、市遺族会に参加している遺族は、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を持っており、同神社の信仰を目的とする団体を構成しているから、それ自体の性格からしても、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当する旨主張するので、以下、この点につき検討する。

(一) 市遺族会の宗教団体性に関する事実関係

(1) 市遺族会の目的、事業活動等

前記3、4の(三)の認定事実によれば、市遺族会は、各会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資することをもってその目的とする団体であるところ、右目的を達成するための現実の事業活動を大別して整理すれば、以下のようなものであり、その昭和五一年度の歳入歳出状況は、別紙市遺族会会計状況一覧表の原告主張欄記載のとおりである。

① 戦没者の追悼、慰霊事業及びそれに関わる事業

イ  靖国神社参拝を主目的とする上京旅行(これは同時に、会員相互の親睦、慰安事業でもあると考えられる。)

ロ  本件慰霊祭を含む各地区遺族会(支部)慰霊祭の挙行

ハ  全国、または府の戦没者追悼式への参加及びそのとりまとめ

ニ  大阪護国神社春秋大祭参加(集団参拝)

ホ  四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛

② 会員相互の親睦、慶弔事業

イ  靖国神社参拝を主目的とする上京旅行

ロ  大阪府遺族会の春秋上京旅行参加

ハ  死亡遺族への弔慰金の支出等

③ 国、大阪府との関係における遺族援護行政にかかわる事業

イ  遺族援護関係法律の改正点等の周知、徹底

ロ  戦跡巡拝、遺骨収集の参加者とりまとめ等

ハ  府の年末慰問品配布及び戦没者遺族実態調査票配布の手伝い

④ その他の事業

イ  市遺族会の活動、運営に関する事業(評議員会、理事会等の開催、青年部会議等、会計、一般事務、広告関係の仕事)

ロ  他団体とのつながり、交際関係の事業

ハ  府遺族会との連絡、会議、日本遺族会等への会費納入等

ニ  青年部による靖国神社参拝研修

ホ  神社暦の配布

へ 本件忠魂碑の維持、管理

これらの諸活動のうち、①のニ、ホは、その全部が、①のイ(②のイ)、④のニは、少なくとも靖国神社の参拝については、宗教にかかわる活動であることは明らかであり、また①のハ、②のロ、ハ、③のイ、ロ、ハ、④のイ、ロ、ハ、ホは、それ自体では、宗教にかかわる活動とはいえない(なお④のホの神社暦の配布及びその使用は、今日では、もはや宗教的意味を持たない世俗的な行為と認めるのが相当である。)と考えられる。もっとも、市遺族会が、これら宗教にかかわる活動を行っているのは、戦没者遺族の集合体としての性質上、右遺族らの精神的慰藉を図る目的によるものと考えられ、それを超えて宗教的活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大を目的としていることを窺わせる事実はない。なお、①のロの本件慰霊祭を含め市遺族会が毎年本件忠魂碑前で行っている戦没者慰霊祭の性格、その宗教性と、④のへの本件忠魂碑の維持、管理が、宗教的活動にあたるといえるか否かの点についての判断は、後記のとおりであるが、これら碑前慰霊祭の挙行及び本件忠魂碑の維持、管理も、市遺族会の会員たる遺族らの精神的慰藉を図る目的から、地域戦没者の追悼、慰霊行事を施行するとともに、戦没者たる親子、兄弟等を想起してその事蹟を永く記念するという意味で行われていると認められ、それを超えて、宗教的活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大を目的としているとは認めがたい。

(2) 忠魂碑一般の性格及びその碑前での慰霊祭の歴史、特質等

前記4の(三)の認定事実によれば、忠魂碑一般の性格及びその碑前での慰霊祭の歴史、特質等は、以下のとおりである。

① 初期の忠魂碑あるいはその源流となったと考えられる招魂碑の性格は、招魂墓碑としての性格を持つ系統のものもあり、一方で単なる事蹟、あるいはそれに関連する人名等を書きとどめるものもあり、その名称が区々であるように、その性格を一義的に決することはできず、具体的にその設立の趣旨、目的によってその性格を判断するほかないが、基本的には、招魂場(のちに招魂社となり、そのうち、東京招魂社は靖国神社となり、各都道府県のそれは護国神社となる。)とその起源を同じくするものである。

② 日露戦争後、戦没者の慰霊・顕彰のための碑として忠魂碑という名称が定着するとともに、在郷軍人会を中心に、各地でその建設運動が進められたが、他方、戦没者の慰霊・顕彰という面では招魂社も同一の機能、役割を持つものであってその建設も各市町村で盛んになった。このような状況下で、政府(内務省神社局)は、招魂社が多数乱立することはその運営上あるいは崇敬の対象が分散することから好ましくないとして、その設立を抑制する方策をとったが、戦没者遺族、地域住民らは、各地域の戦没者の霊を郷土である各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設けたいという希望が強く、忠魂碑等の建立を進めるとともに、各地区の忠魂碑等の前で、神式あるいは仏式の招魂祭あるいは慰霊祭を催してきた。

③ 満洲事変の勃発に伴い、戦没者が急増した昭和一〇年ころから、もっぱら陸軍の支援により、各地で遺骨を納めて合祀するための忠霊塔の建設が進められ、以後あらたな忠魂碑の建設は少なくなったが、忠魂碑が忠霊塔にすべて置き換わったというわけではなく、忠魂碑は忠魂碑として在郷軍人会等による維持、管理がなされていたことはもとより、戦時色が強まるにつれ、小、中学校の児童、生徒等に対する忠魂碑への参拝の指導、強制、またそれら児童、生徒による忠魂碑の清掃、拝礼も日常化されていった。

④ 敗戦後、神道指令により、制度的国家神道の解体が図られ、また軍国主義・超国家主義に結び付く実質的国家神道も打破されることとなったが、忠魂碑のすべてが軍国主義的、超国家主義的思想の宣伝、鼓吹を目的とするものあるいは政教分離原則に反するものとされたわけではない。また、その後講和条約の発効を機会に忠魂碑が再建、復元、あるいは新設されたが、必ずしもそれらの前で慰霊祭が行われるというわけでもなく、行われる場合にも、その祭式は特定の宗教、宗派によるとは限らず、その主催者も多様である。

(二) 忠魂碑の宗教施設性及び忠魂碑前での慰霊祭の宗教性

(1) 忠魂碑の宗教施設性

原告らは、忠魂碑は、天皇のために忠義を尽して戦死し、靖国神社に祭神として祀られている戦没者を、地域において、慰霊、顕彰するために建てられた石碑であるところ、それは、霊魂の存在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在であり、この意味において、天皇のため死んだ者を神として祀り、あとに続く者に忠君愛国の精神を鼓舞する国家神道の宗教施設であり、軍国主義教化施設である旨主張するので、以下、この点について検討する。

①  まず、前記4の認定事実によれば、忠魂碑の「忠魂」という名辞は、本来、天皇に忠義を尽した戦死者の魂という意味であり、日露戦争後に一般化した名称であるが、その背景には、このように累次の内戦及び日清、日露戦争で、天皇に忠義を尽した(それは国家のためということと同義であった。)戦死者を慰霊・顕彰する碑の名称としては、それが最もふさわしいと考えられたという事情があったところ、明治維新後、同じく戦死者を慰霊・顕彰するという目的のために招魂社が建てられ、それが東京招魂社から靖国神社へと、また各地の官祭・私祭招魂社から指定・指定外護国神社へと発展していったこと、また、靖国神社と護国神社とは本社、分社の関係にはないものの祭神を共通にするものであり、その祭神とはまさに天皇のために忠義を尽して死んだ戦死者であったことが明らかであって、これらの事実に照らせば、忠魂碑は、その建立の経緯、動機においてこれら靖国神社、護国神社と共通の宗教的、思想的基盤を有していたことは否定できず、そこでいう宗教、思想とは、靖国神社の宗教思想と同じく招魂の観念と、天皇の神聖絶対性を前提とし、その威徳を広めるための聖戦において、戦死することを無上のものとして称える実質的国家神道の宗教思想とが渾然一体となったものであると考えられる。

②  また、忠魂碑は、本来は、単なる記念碑であって、それ自体は、宗教施設的性格を持つものではないが、忠魂碑前での参拝に関する通達、通牒等の存在することから明らかなように、現実には、当時忠魂碑等の碑の前で、招魂祭、慰霊祭等が広く行われていたこと、その背景には、忠魂碑は、その建立の経緯からしても、招魂社と同じく戦没者を追悼、慰霊するという面があり、本質的に戦没者の追悼、慰霊行事と結び付きやすい性格を有していたうえ、神社側は、戦死者を祀る正式の施設たる招魂社を各市町村ごとに設立することには消極的であったのに対し、戦争の激化に伴い、各市町村の戦没者の数も増え、また在郷軍人会の組織化等により、それら地域ごとの戦死者の慰霊、顕彰の必要が高まったため、各地で招魂祭、慰霊祭が行われることが多かったが、その際、招魂社に代わる場所としては、一般の神社(その由来は種々雑多なようであるが、その土地に土着の神社は、通常は、豊作祈願等その地域の平穏無事を願うものが多く、戦死者との結び付きは希薄であると思われる。)よりは、戦死者のために建てられた碑であることが明確な忠魂碑等の碑前が最もふさわしいと考えられたこと、そのような状況を背景にして、満洲事変に始まる一連の戦争が、拡大、激化、長期化し、また戦没者の数も増加していく中で、それに伴い、軍を中心とする政府は、忠魂碑を軍事政策の上で意図的に利用し、愛国心・忠誠心を高揚すべく、戦没者は郷土の英雄であり、その死は無上のものとして称えられるべきであり、各地域でそのような戦没者にならうという意味を込めて、忠魂碑を礼拝の対象とさせるようになり、児童、生徒に対する参拝、日常の拝礼の強制等、忠魂碑自体を神社等の宗教的な施設のように扱い、それを軍国主義の精神教育に利用するという面も生じたのであって、これらの事実からすれば、忠魂碑が、公式的見解、法制上の扱いはともかく、事実上、地域の戦没者を祀る施設であり、そこには戦没者の霊魂が鎮座しているという観念が広く浸透し、本来の国家神道上の宗教施設たる招魂社、護国神社さらには靖国神社と同様の意識で受け止められ、軍国主義の精神的基盤たる実質的国家神道を支え、助長する機能を果たしてきたことは否定できない。

③  しかし、このように忠魂碑が、靖国神社、護国神社と宗教的・思想的基盤を共通にしていたとはいっても、他面、忠魂碑は、いしぶみたる碑としての本来の性格、すなわち、戦死者を記念するという面を持っていたことも確かであるうえ、建立の経緯、動機は、戦没者の慰霊、顕彰という面では、靖国神社、護国神社と共通な面を有するとはいえ、忠魂碑の建立にあたり、戦没者の霊魂を靖国神社等に合祀するのと同じような形で、地域の戦没者の霊魂を忠魂碑に合祀する祭式がとられていたわけではなく、その面で、たとえ、忠魂碑に戦没者の霊魂が祀られていると観念されていたとしても、それは忠魂碑自体の本来的性格からするものではなく、むしろその前での慰霊祭等の挙行を通じて次第に人々にそのように観念されるに至ったものと考えられること、そして、神社側は、忠魂碑等の戦没者碑を参拝の対象とすることには一貫して否定的であり、少なくとも神社側(内務省神社局等)からそれら碑を祭祀施設として位置付けようとした事実はないこと、また、碑の外観、形状等も、日露戦争後の碑は忠霊塔を除き、遺骨等が現実に埋葬された碑はほとんどないこと等その施設自体も祭祀施設たることを予定していなかったことが明らかである。なお、忠魂という言葉の持つ意味及びそれと招魂社、靖国神社等との関係については、前記のとおりであるが、しかし他面、戦前においても、戦没者を記念する碑の名称としては、必ずしも忠魂碑に限らず、種々の名称の碑が存在していことは前記認定のとおりであり、かつその間に特に碑の宗教的性格として有意な差異があるとも認めがたいのであって、このことは、忠魂碑が、本来的には、他の戦没者碑と同様、戦没者を記念する碑としての性格を持つことを示すものと考えられる。

④  このように、忠魂碑は、その字義からも、現実の機能からも、事実上、制度的・実質的国家神道上の宗教施設たる招魂社、あるいは招魂場に類似した性格を有し、また、それに近い役割を果たしてきたものであり、その面では、たしかに靖国神社、護国神社と同様の性質、機能を持っていた事実は認められるものの、他方、忠魂碑は、前記のように、それ自体においては、宗教施設たる要素を本質的に備えているものではなく、その面では靖国神社、護国神社等の本来的な宗教施設とは本質的に異なる性格を有するものであることも否定できないのであって、結局、忠魂碑を宗教的な施設たらしめていた要因を分析すれば、戦前の日本における軍国主義的国家体制と、その基盤をなし、広く国民の間に浸透していた制度的・実質的国家神道及びそのもとで、挙行されていた碑前での招魂祭、慰霊祭等の儀式が挙げられるのであり、それらを通じて、本来は、戦没者を追悼、記念する碑であった忠魂碑が、参拝、拝礼の対象とされ、また、各地域の戦没者の慰霊、顕彰の祭祀の中心として位置付けられ、宗教施設化していったものと考えられるのであって、忠魂碑それ自体が、それらの諸要因を離れても独立に宗教施設として存続し続けるような客観的要素は見当たらない。

⑤  敗戦後、前記のように神道指令により、国家と神社神道は完全に分離され、また、神社とともに、軍国主義的、超国家主義的思想を支える機能を果たしてきた忠霊塔、忠魂碑等も、その撤去が指導され、実行されたが、右措置も、忠魂碑が神社等と同様の性格を持つ宗教施設であると認識しての措置とみるよりは、それが前記のように過去に軍国主義、超国家主義の鼓吹に利用されていたという面に着目したと解する方が自然であると思われる。また、講和条約発効後、戦没者を記念する忠魂碑、慰霊碑、忠霊塔等多種多様の碑・塔が遺族団体等によって建立されることが多くなり、しかも、碑・塔の前で数種の宗教の形式をもって、あるいは無宗教形式で、遺族会、市町村、自治会等各種団体が主催して慰霊祭を行うことも多くなったが、これらは、戦没者を慰霊・顕彰する碑・塔は、その銘文のいかんにかかわらずもはや特に宗教、ことに実質的国家神道とかかわり合いのあるものではなく、また、過去のように、軍国主義・超国家主義思想を宣伝鼓吹する目的を持つものではなく、もっぱら記念碑としての性格を有するものであるとの共通の認識のもとになされたものであると解される。

⑥  そして、わが国は、新憲法のもと、平和主義及び国民主権の理念に立ち、軍国主義的国家体制は解体され、それに伴って実質的国家神道も少なくともその宗教的側面は、国民一般の意識において消滅したとみるべきことは前記のとおりであり、このような政治体制の変革に伴い、本来は、戦没者の事蹟を記念し顕彰するための碑であった忠魂碑を宗教施設化させていた諸制度とこれを支えていた宗教的基盤は、少なくとも一般大多数の国民の中にはもはや存在しないことが明らかであり、とすれば、戦後においては、忠魂碑は、右に述べたような国家神道上の宗教施設としての性格は消滅したかあるいはほとんど希薄になったといわなければならない。もっとも、前記認定のような本件忠魂碑の移設の際の儀式及び本件慰霊祭の状況等をも考えれば、今日でも、忠魂碑は戦没者の霊魂を祀ったものであるとか、あるいはその前での慰霊祭は、戦没者の霊魂を招き降ろし、慰めるものであるというような宗教的感情は、未だ多くの人々の心の中に意識的あるいは無意識的に存在していると考えられ、その意味では忠魂碑が、今日もなお宗教にかかわる碑であることは否定しえないところであるが、しかし制度的国家神道の解体した今、それらの宗教的感情を忠魂碑への日常の拝礼、参拝等に公的・強制的に結び付ける要素はもはや存在しないこと、また、右のような宗教性も、その内容において、天皇の神聖絶対性を基盤とする実質的国家神道に結び付くものとは認めがたいのはもちろん、他の死者を追悼、記念する碑や塔一般に対して一般人が抱く宗教的感情と特に異なったものがあるとも認めがたいのであって、これらに制度的国家神道の解体した今、忠魂碑への拝礼、参拝等を公的に強制する要素は全く存在しないことをも考慮すれば、それをもって忠魂碑が今日もなお宗教施設としての性格を有するとはいえないと考えられ、結局、今日、忠魂碑は、もっぱら戦没者を追悼、顕彰するための記念碑としての性格のものとみざるを得ない。

⑦  また、戦後においても、忠魂碑等の碑銘を持つ碑が各地で建設され、その前で、種々の方式で追悼式、慰霊祭等が行われていることは前記認定のとおりであり、それらは忠魂碑等の碑が招魂祭等の祭祀の中心となる施設であった戦前の状況と外見は一見類似するものの、右のようにそれを取り巻く政治的諸制度、宗教的諸要素は大きく変わったのみならず、それに参加する遺族等の意識の面でも、従来、軍国主義、超国家主義的思想を支えてきた国家神道の教義は、今日、親子間の礼節といった一般社会倫理、道徳といえる面では、人々の意識の中に、意識的あるいは無意識的に残存しているとしても、少なくとも、天皇の神聖絶対性を前提とするその宗教的側面は、もはや一般的には消滅したと認められるのであるから、今日、忠魂碑等の碑前で慰霊祭等を挙行あるいはそれに参加する遺族らの一般的意識としては、その慰霊祭を、戦没者が、天皇のために一命を捧げたことを称揚し、その忠君愛国の精神、天皇に対する忠義の故に戦没者を神霊として遇すると観念して施行しているものではなく、むしろ、それらは、その主催者、形式にかかわりなく、儀式を通じて親子、兄弟等肉親である戦没者の生前を想起し、故人を偲ぶという要素が強い(もっとも儀式の実質的な意味がこのようなものであるからといって、それが、神式あるいは仏式の宗教儀式として行われる以上、その宗教性を全く否定することができないことは明らかであるが。)と考えられるのであり、とすれば、前記のような今日の忠魂碑前での慰霊祭等の挙行をもって、今も、忠魂碑に宗教施設としての性格が残存しているということはできない。

⑧  もっとも、忠魂碑という碑の宗教的性格がこのように変容したとはいっても、忠魂という言葉自体の字義そのものまでが変わったわけではないのであって、忠魂碑という碑の本来的性格が、戦争犠牲者一般と対比して、天皇に忠義を尽して死んだ人々を、その忠義の故に、特に称え、尊拝する碑であるという面には変わりはなく、そして、このような碑の前で行われる慰霊祭も、その祭式が神式であるか仏式であるかはともかく、おのずと単なる慰霊碑一般の前で行われる追悼式等とは異なり、戦没者をそのような死に様の故に特に褒め称え、その死を尊ぶという面のあることは否定できないのであるが、しかし、実質的国家神道の消滅した今、英霊という観念に変容のみられるごとく、忠魂碑の前での慰霊祭についても、前記認定の本件慰霊祭の状況にみられるように、もはや天皇の神聖絶対性を前提とし、天皇のために忠節を尽したがゆえに戦没者を称えるというのではなく、むしろ国家のために尽して一命を失った戦没者の犠牲の上に今日の民主的で平和な社会が築かれるに至ったとの観点から、戦没者を尊拝し、美称を使って敬意を表しているとみざるを得ないのであるから、この点も忠魂碑の宗教的性格に関する前記判断を覆すに足るものではない。

(2)  忠魂碑等の前での慰霊祭の性格

原告らは、忠魂碑等の碑前での慰霊祭は、「忠魂を慰める」ことを目的とする招魂の観念に基づくものであり、靖国神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼である旨主張するので、この点につき検討する。

①  忠魂碑等の碑の建立の動機とその性格及びそれらの碑の前で招魂祭、慰霊祭が挙行されるようになった経緯、背景は、右(1)に述べたとおりであり、これらによれば、忠魂碑等の碑は、戦前において、宗教施設たる靖国神社、護国神社の延長線上にあるものと受け止められ、また、その前で招魂祭、慰霊祭等が広く挙行されていたこと、なお、右招魂祭、慰霊祭は、地域の戦没者の霊を郷土である各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設けたいとの各住民の気持に基づくものであること、そして、それらの慰霊祭は、神式、仏式いずれの祭式によるかを問わず、戦没者に対する当時の一般的風潮と同様に、その忠君愛国の精神を称えるという要素を持っていたことからすれば、基本的には、前記のような招魂の思想及び実質的国家神道の宗教思想に結び付く面のあったことは否定できず、その意味で、戦前におけるこれら碑の前での慰霊祭が、靖国神社の宗教思想、その祭祀とつながる面のあることは否定しえない。

②  しかし、戦前においても、これら忠魂碑等の碑の前での慰霊祭等が、もっぱらこれら招魂の思想あるいは実質的国家神道に基づく天皇崇拝の観点からのみ行われていたとは必ずしも認めがたく、それは同時に、各遺族らの各人各様の思いで、それぞれ戦没者の生前を想い起こして、故人を追悼するという面も持っていたと思われるが、それはさておいても、それら慰霊祭等と、靖国神社の祭祀との共通基盤となっていた宗教的要素のうち、実質的国家神道に基づく天皇の神聖絶対性の観念がもはや国民一般の意識としては、消滅したとみざるを得ないこと、今日、それらの碑の前で慰霊祭等を挙行あるいはそれに参加する遺族の一般的意識として、その慰霊祭を、戦没者が天皇のために一命を捧げたことを称揚し、その忠君愛国の精神、天皇に対する忠義のゆえに戦没者を神として遇するという意識をもって施行するとは考えられないことは右(1)に述べたとおりであり、とすれば、今日、これら碑の前で行われる慰霊祭をもって、忠魂を慰めることを目的とするものとは認めがたく、靖国神社が今も戦前と同じく、右のような意味での忠魂を慰めることを本旨とする宗教思想を維持しているか否かはともかく、これら碑の前での慰霊祭をもって、それが右のような意味での同神社の宗教思想と結び付く、同神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼であるとはいえないことは明らかである。

③  もっとも、今日においても、これらの碑に死者の霊魂が宿り、あるいは慰霊祭において、死者の霊をその碑に招き降ろし、慰めるというような観念は、今なお、多くの人々の間に残存していると考えられるところ、これらは、招魂の思想あるいはその源流となった御霊信仰に基本的に結び付くものであって、その意味では、これら慰霊祭が、靖国神社の宗教思想とその根底において共通する面があることは否定しえないが、しかし、それらは、天皇への忠義、忠節を無上の徳として称えるという実質的国家神道が消滅した今、それが直ちに忠魂を慰めるという靖国神社の宗教観念に結び付くものでないことはいうまでもないのであって、この点も前記の判断を覆すに足るものではない。

(三)  市遺族会の宗教団体性についての判断

(1)  市遺族会の目的、事業活動の概要

前記のように、市遺族会の目的は、会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資することにあるが、その事業活動をみると、本件慰霊祭を含む各地区(支部)慰霊祭の挙行、大阪護国神社春秋大祭への参加、四天王寺英霊堂での慰霊行事に協賛し、あるいは靖国神社参拝を主目的とする上京旅行を行うなど、たしかに宗教にかかわる事業の比重が大きいことは否定しえないが、しかし、決してそれのみに限られるわけではなく、遺族援護関係法律の周知、徹底、戦跡巡拝、遺骨収集の参加者とりまとめ、府の年末慰問品配布や戦没者遺族実態調査票配布の手伝い等、国、大阪府の遺族援護行政の補完的活動あるいはその上部団体である府遺族会主催の上京旅行参加など会員相互の親睦事業も、同会の事業の中である程度の割合を占めていることが明らかであり、また、それら宗教にかかわる活動も、宗教的活動それ自体あるいはそれを通じて特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大を目的とするものではなく、もっぱら戦没者遺族の精神的慰藉を目的とするものである。

(2)  本件忠魂碑の性格、宗教性

①  前記3の(四)の認定のとおり、旧忠魂碑は、大正五年に分会によって建立され、昭和一〇年代までは、毎年、その前で慰霊祭が神式又は仏式によって挙行され、戦後は、一度碑銘部分だけが地中に埋められたが、その後、昭和二六年に再建されて、市遺族会の清掃管理するところとなり、碑前慰霊祭が行われるようになったものであって、たしかに戦前においては、一時期礼拝の対象とされていたことはあるものの、旧忠魂碑の建立の経緯や、その碑の形状等も、他の一般の忠魂碑と特に異なるところはないといわなければならない。

②  もっとも、前記認定事実によれば、本件忠魂碑の移設・再建工事を請負った不動建設株式会社は、移設工事前に旧忠魂碑の前で、移設・再建工事後に本件忠魂碑の前でそれぞれ神官による神式の祭儀を行い、その費用を負担したが、その際、市遺族会及び右会員は、右儀式を、旧忠魂碑前でのものを移築報告祭・脱魂式と、本件忠魂碑前でのものを移築竣工祭・入魂式と称したこと、さらに、昭和四一年ころ、当時の市遺族会の会長であった加藤由次郎は、沖縄の「浪花の塔」を参考にして、過去帳記載の戦没者の氏名を丸杉板及び「霊爾」と印された木柱に移記し、これを本件忠魂碑の基礎台中に納めたことが明らかであり、また甲第六〇号証(原本)及び証人杉山久雄の証言によれば、市遺族会の役員、会員らの中には、本件忠魂碑に戦没者の霊が祀られていると観念しているものも相当数存在することが認められ、これらの諸事実に照らせば、本件忠魂碑が、もはや、それ自体で戦前のような意味での宗教施設とまではいえないにしても、やはり単なる記念碑としての性格にとどまらず、戦没者を祀った碑であり、そこに霊魂が存在すると観念されるという意味では、宗教にかかわる碑であることは否定しえない。

③  しかし、右脱魂式等の儀式は、本件忠魂碑の移設前後にそれぞれ営まれた神式の祭祀であるにもかかわらず、遺族会会員は、これを仏教用語である脱魂式、入魂式と呼んでいたことからも明らかなように、その儀式本来の宗教的教義に従ったわけではなく、死者にかかわる土木工事を行う業界の通例として行われる世俗的な行事としての面が強いこと、また、前記「霊爾」についても、前記認定事実によれば、これらは、宗教上の手続に則って納められたものではないうえ、それを特に遺族関係者らに知らせる措置もとられなかったため、市遺族会の会員すら、その存在を知らないままに経過したこと、さらに、本件忠魂碑に戦没者が祀られているとの受け止め方についても、前記(二)の(2)で述べたように、これら死者を記念、追悼するために建立される碑について、それがなんらかの意味で死者の霊と結び付く存在であると受け止めることが比較的一般の考えであると思われ、それが宗教観念であることは否定できないにしても、それが実質的国家神道と結び付くものでないことはもとより、その宗教性は、忠魂碑特有のものというより、むしろ死者を追悼、記念する碑一般に対し、多数の日本人が抱くような宗教的感情に近いと考えられること(なお、証人杉山久雄は、本件忠魂碑には父親が祀られていると考えるが、他方、同人は、千鳥が淵戦没者墓苑へ行っても、なにわの塔に行っても同じことを考える旨証言している。)等に照らせば、これらの諸事実も、本件忠魂碑が他の忠魂碑一般と異なり、特に宗教施設としての機能、性格を持っていることを示すものということはできない。

④  また、前記認定の本件忠魂碑の構造、様式は、たしかにある種の荘厳さを感じさせるものではあるが、死者とりわけ戦没者、遭難者等非業の死を遂げた者を慰霊・追悼する目的で建立される施設については、忠魂碑に限らず、多かれ少なかれ荘重かつ厳粛な雰囲気が生ずるように構造上・様式上の配慮がなされることは死者に対する自然な敬弔の念のしからしめるところと解され、本件忠魂碑に右のような荘厳さがあるからといって、それゆえに本件忠魂碑が、右のような死者を慰霊・追悼する施設と性格を異にする宗教施設であるということはできない。なお、本件忠魂碑の碑前で、戦前も戦後も年一回の割合で慰霊祭が挙行されてきたことは前記認定のとおりであるが、慰霊祭をその死者のゆかりの碑・塔の前で挙行することは、本件忠魂碑に限らず、種々の死者を記念・追悼する碑について行われていることは公知の事実であって、これらはそのような碑の前で慰霊・追悼の式典を行うことが、荘重かつ厳粛な雰囲気を作るために効果的であるという面と、それが、なんらかの意味で死者の霊に結び付く場と考えられていることに基づくものと考えられるが、しかし、このような慰霊祭の行われる碑・塔が一般に宗教施設であると認識されていないことは明らかであって、結局、この点も本件忠魂碑の宗教施設についての前記判断を左右するに足るものではない。

⑤  このように、本件忠魂碑は、戦没者を祀った碑であると観念されるという意味において、宗教とかかわりのある碑であることは否定しえないが、前記のように、それらの観念は、忠魂碑に限らず、他の死者を追悼、記念する碑に対して、多数の日本人が抱く宗教的感情に近いものと考えられること、なお、市遺族会の会員らが、本件忠魂碑を維持、管理するゆえんは、その宗教的性格もさることながら、それが地域の戦没者を記念する碑であるとの意味合いも含まれていると考えられること、また、本件忠魂碑前で年に一回慰霊祭が挙行されていることは前記のとおりであるが、市遺族会において、それを超えて、日常的にその碑前でなんらかの宗教的行事を営むとか、同碑を利用して対外的な宗教的活動を行っているとは認めがたいこと等に照らせば、市遺族会が、本件忠魂碑を単に現状のままで維持、管理することをもって、ただちに宗教的な活動とはいいがたいと考えられる。

(3)  碑前慰霊祭の性格、宗教性

①  前記認定事実に照らせば、碑前慰霊祭は、その祭式が神式あるいは仏式のそれぞれの宗教儀式に則り、神官あるいは僧侶によってとり行われるものであって、いずれにせよ宗教儀式そのものであり、宗教的活動であることは明らかである。なお、被告は、このような碑前慰霊祭は、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念の式典であり、その本質は、習俗化した社会倫理の儀礼的表出であり、宗教的な儀式の執行も、演出効果を高める副次的要素に過ぎない旨主張しているところ、たしかに、碑前慰霊祭の趣旨が、実質的にみて、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにするという点にあることは認められるにしても、正式の宗教家たる神官あるいは僧侶が儀式を司どり、かつ、その宗教の祭式に則った儀礼で行われる碑前慰霊祭が、もはやその宗教性を失い、単なる社会倫理の儀礼的表出にすぎず、宗教的活動にあたらないといえないことはいうまでもない。

②  なお、原告らは、本件慰霊祭を含む碑前慰霊祭は、忠魂を慰めることを目的として行われるものであって、靖国神社の祭祀と同根同質であり、同神社の信仰に基づく宗教儀礼である旨主張しているところ、そもそも靖国神社が戦後においても、原告ら主張のように、「忠魂を慰める」ことをもって本旨としているか否かは疑問であるが、それはさておいても、これら忠魂碑等の碑の前での慰霊祭の性格が、戦前においては、たしかにそのような靖国神社の祭祀につながる要素があったことは認められるものの、今日、一般的にみてそのような側面が残存していると認めがたいこと、ただ、これら忠魂碑の碑前での慰霊祭は、戦没者をその死に様のゆえに称え、尊拝するという面のあることはたしかであるが、実質的国家神道が消滅し、英霊たるゆえんを天皇への忠義、忠節で基礎づけられなくなった今、それをもってただちに忠魂を慰めることを目的とする宗教儀礼といえなくなったことは前記(二)の(2)のとおりであり、そのような事情は、本件慰霊祭を含む碑前慰霊祭についても特に変わりはないと認められるのであって、むろんその儀式が神式あるいは仏式の正規の祭式に従って行われている以上それが宗教的儀式であることは否定できないが、それを超えて原告ら主張のように、それが、忠魂を慰めることを目的とする宗教儀礼であるといえないことは明らかである。

(4)  市遺族会の性格、宗教団体性

以上の諸事実に照らせば、市遺族会は、碑前慰霊祭、靖国神社参拝旅行、護国神社の大祭への集団参拝、四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛するなど宗教にかかわる活動を毎年継続していること及びそれらの活動は、同会の年間の事業活動の中で、相当の比重を占めていることは否定できないが、他方、同会も、その発足の経緯、目的は、戦没者遺族の処遇改善、福祉の増進にあったもので、これらは現在も会の存立目的として維持されているのみならず、現実の事業活動としても継続されているのであって、これらを全体としてみると、もっぱら宗教にかかわる事業活動のみを目的とする団体であるとはいえないこと、また、右のような各種の宗教にかかわる活動の動機、目的についてみても、市遺族会は、戦没者の遺族の集合体としての性格から、おのずと戦没者の追悼行事がその目的に含まれてくる性質を持ち、そのような関係で、全国又は府の戦没者追悼式への参加等と同じく、戦没者の慰霊行事を行っているものであり、その場合に、歴史的経過もあり、国家的には、靖国神社を慰霊の場とし、地域的には、大阪護国神社への参拝や、四天王寺英霊堂での慰霊行事の協賛を行い、また、さらに身近な慰霊の場を本件忠魂碑とその前での慰霊祭に求めているとみられるのであって、このような各会員の肉親たる戦没者を追悼、慰霊するという意識、目的を超えて、宗教的活動それ自体あるいはそれを通じての特定の宗教の教義、信仰の布教、拡大を目的としているわけではないこと、なお、右のような宗教にかかわる活動の性質も、慰霊祭を除いては、参拝等の行事が主体であり、積極的に宗教の宣伝、流布活動を含むものではなく、碑前慰霊祭についてもそれが神式あるいは仏式で挙行されているという意味で、宗教行事であるにしても、その趣旨は、基本的に戦没者の生前を想起し、その記憶を新たにするとの意味合いで行われており、特に靖国神社に対する信仰の拡大、発展を目指す等、特定の宗教の宣伝、流布活動ではないこと、さらに、本件忠魂碑も、戦没者を祀った碑であると観念される意味においては宗教とかかわりを持つ碑であることは否定しえないにしても、今日では、靖国神社に対する信仰につながる宗教性を持つものとはいえないうえ、その維持・管理の目的や、そのかかわり合いの程度、態様等に照らせば、それをもってただちに宗教的活動とはいえないことなどが認められ、これらの事実からすれば、市遺族会は、それ自体の目的、事業活動に照らしても、原告ら主張のように、靖国神社の信仰を目的とする団体を構成しているといえないことはもとより、宗教的活動を目的とする団体ともいえないことが明らかであり、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」にあたらないといわなければならない。

8  まとめ

(一)  以上のとおり、市遺族会は、日本遺族会の支部としての性格においても、また市遺族会それ自体の性格としても、宗教的活動を目的とする団体とはいいがたく、この意味で、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」にあたるとはいいがたいと考えられるが、これを、各会員の有する宗教、信仰の共通性という面からみても、たしかに、会員たる遺族らは、靖国神社に戦没者の霊が祀られているという意味で、同神社の存在を支持し、そこに参拝する者が大多数であることは事実であるが、それも前記のような、好むと好まざるとにかかわらず、遺族らの肉親である戦没者が、いわば自動的にそこに合祀され、かつそれが戦没者にとっても遺族らにとってもなによりの名誉とされたという歴史的経過に基づくつながりによるものであり、これを超えて、靖国神社に対する信仰やその祭祀それ自体を積極的に支持しようとする意識をもっているとは必ずしも認められず、むしろ、各遺族らは、それぞれの有する宗教、信仰は、それとして、このような過去における歴史的経過に基づくつながりにおいて、その限度で、靖国神社あるいはその系列にある護国神社に参拝しているとみられるのであって、とすれば、このような遺族らの集合体である市遺族会をもって、信仰について意見の一致する者の組織体ということも困難であり、この面からも、市遺族会が、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」ということはできない。

(二)  したがって、本件各行為が、憲法八九条前段、二〇条一項後段に違反する旨の原告らの主張は理由がない。

9  本件各行為の憲法二〇条三項違反の有無

原告らは、市は、本件書記事務従事により、市遺族会の宗教活動たる英霊顕彰事業の事務を担当し、また、本件補助金支出によって、その活動費の一部を負担することにより、みずから英霊顕彰の宗教活動をしたことになるから、本件各行為は、憲法二〇条三項に違反する旨主張するので、以下、この点につき検討する。

(一)  憲法二〇条三項の解釈

憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定し、いわゆる政教分離原則を定めているところ、憲法の政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いがわが国の社会的・文化的諸条件に照らし信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきであって、このような見地から憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」の意義を考えると、それは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうと解すべきである。

(二)  これを本件についてみると、前記二の1、2認定の本件補助金支出及び本件書記事務従事の事実関係及び前記三の3の(三)の(2)認定の本件補助金の交付された昭和五一年度の市遺族会の歳入歳出状況並びに乙第二六号証(原本)及び証人井上隆志の証言によれば、本件各行為のうち、本件補助金支出は、たしかにその交付によって、結果的に市遺族会の宗教にかかわる活動に対する援助、助長の効果を伴う面を持ち、また、本件書記事務従事も、その事務の中には、靖国神社参拝旅行、大阪護国神社の春秋慰霊大祭等の通知、出欠の案内等の文書の作成、発送等、宗教的な行事にかかわる事務も含まれていたことが明らかであり、これらの行為が、結果的にみて、市遺族会の宗教にかかわる活動の援助、助長の効果を伴っていたことは否定しえない。しかしながら、本件補助金支出及び本件書記事務従事それ自体は、なんら宗教的意義を持つ行為ではなく、被告が箕面市長として本件各行為を行った目的は、遺族の処遇改善、福祉の向上及び戦没者の慰霊顕彰による遺族の慰藉等を目的とする世俗的団体である市遺族会に対し、遺族の福祉増進の見地から行う援助というもっぱら世俗的なものであり、その効果も、市遺族会を援助することによって間接的にその行う宗教にかかわる活動にも援助の効果が及ぶ結果となったにすぎないうえ、市遺族会が行う宗教にかかわる活動も、同会が戦没者の遺族の集合体であることから、おのずとその事業の中に含まれる追悼、慰霊等遺族の精神的慰藉のための活動の一環としてのものにすぎず、特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大といった宗教的活動自体を目的とするものではないこと、さらに、右補助金支出については、それによる収入は、市遺族会の昭和五一年度の全歳入の半分以下であり、もっぱら右補助金によって、市遺族会の運営がなされているとはいえず、社会的に不相応な金額ともいえないし、また、右書記事務従事についても、それは市遺族会の宗教にかかわる活動それ自体を直接援助し、あるいは手伝うというものではなく、それらの活動の通知、案内文書の作成、発送という間接的な援助にとどまることが認められるのであって、これらの事実によれば、本件各行為の目的はもっぱら世俗的なものであり、その効果も神道、仏教等特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められず、したがって、本件各行為は、宗教とのかかわり合いが、わが国の社会的・文化的諸条件に照らし信教の自由の保障の確保という制度との根本目的との関係で未だ相当とされる限度を超えるものとは認めがたく、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないというべきである。

(三)  したがって、本件各行為が、憲法二〇条三項に違反する旨の原告らの主張は、理由がない。

四本件各行為の憲法八九条後段、社会福祉事業法五六条一項違反の主張について

1(一) 原告らは、本件補助金は、憲法八九条後段が禁止した「慈善、教育若しくは博愛の事業」に対する助成を条件付で解除し、地方公共団体に社会福祉法人に対する補助金交付の権能を与える規定である社会福祉事業法五六条一項に基づいて、市社会福祉協議会に交付されたものであるところ、同条項は、地方公共団体が、社会福祉法人に補助金を交付する手続を定める法形式として条例を指定しているにもかかわらず、市では、本件補助金交付当時、右条例を制定していなかったから、本件補助金交付は、重大かつ明白な憲法違反の瑕疵があり、無効である旨主張する。

(二)  しかし、前記二の3で述べたように、原告らの右主張は本件補助金交付の形式的・手続的側面にのみ着目した主張であるが、本件補助金は、実質的にみて市から市遺族会に直接交付されたものと評価、判断すべきものであって、市が補助金交付につき市と受交付団体との中間に、形式上、市社会福祉協議会を介在させたのは、単に、市が一定の総額を定めて予算化する補助金を各種団体に対して合理的に配分するための手段とする趣旨に出たものにすぎないと認められるから、市から市社会福祉協議会への本件補助金交付にその手続を定める条例欠缺の瑕疵があるとしても、右の瑕疵は、市から市遺族会への本件補助金支出がその性質上条例に基づくことを要しないものである以上、その適法性及び効力に影響を及ぼすものではないといわなければならない。そして、本件補助金が市から市遺族会に直接支出されたとみる以上、右支出は、地方自治法二三二条の二の規定に基づく補助としてなされたものとみるべきであるところ、この場合、同法条のほかに、特に補助金支出についての法律ないし条例による授権あるいは手続規定が憲法上あるいは法律上必要であるとは解しがたいから、本件補助金支出の適法性は、同法条の定める補助の要件である公益上の必要性の有無にのみかかるものであるといわなければならない。

(三) したがって、原告らのこの点に関する主張は理由がない。

2(一)  次に、原告らは、仮に市遺族会が、社会福祉団体であって、憲法八九条後段にいう「慈善、博愛の事業」にあたるとすれば、市社会福祉協議会を通じての本件補助金支出は、間接補助であり、この場合、間接補助先の市遺族会に社会福祉事業法五六条二項以下の監督権限を行使することは不可能であるから、結局、右補助金支出は、公の支配に属しない団体への補助金支出であり、憲法八九条後段に違反する旨主張する。

(二) しかしながら、憲法八九条後段にいう「慈善、博愛の事業」とは、肉体的又は経済的な弱者(老幼者・病人・貧困者等)を宗教的あるいは人道的な見地から主として物質的に援助する事業をいうと解すべきところ、前記三の3認定の事実によれば、市遺族会の事業は、国に対し、遺族援護行政の拡大、増進を要求する活動あるいは右遺族援護行政の補完的活動ないしは市遺族会の会員相互の互助的活動が主体であり、それらの諸活動を全体としてみた場合、戦没者遺族一般の福祉向上に寄与しているという面で公益性を有することは後記のとおりであるが、右福祉増進の対象は、市遺族会の会員たる遺族ら及びそれと同様な地位、立場にある遺族らであって(戦没者の追悼、慰霊行事もそれによって、精神的充足を得られる者は遺族以外にはないと解される。)、そのような同質的な集団を超えて、対外的に社会的弱者に対する援助活動を行っているといえないことは明らかであるから、結局、市遺族会の活動は、同法条にいう、「慈善、博愛の事業」にはあたらないというほかない。

(三)  したがって、原告らのこの点に関する主張も理由がない。

五本件各行為の地方自治法二三二条の二違反の主張について

原告らは、市遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギーである国家神道の中心的施設たる靖国神社を信仰することを本質的な体質とする日本遺族会の支部であり、また、それ自体においても、全体主義的軍国主義と主権在君の思想を表現し、これを広くかつ永遠に宣布伝承する本件忠魂碑を平常礼拝し、それにより毎年慰霊祭を執行するなど、憲法理念に反する活動を重ねてきた団体であり、日本国憲法の根本規範に反する反憲法的・反公益的団体であるうえ、その活動の中には明白な宗教的活動も含まれ、補助金が宗教活動資金となるおそれもあるから、このような市遺族会への援助たる本件各行為は、地方自治法二三二条の二の公益上の必要性を欠くもので違法である旨主張し、これに対し、被告は、遺族援護行政一般の必要性、公益性を前提に、本件各行為もその一環として、同法条にいう公益上の必要性を有する旨主張するので、以下この点について判断する。

1  本件各行為のうち、本件補助金支出が、地方自治法二三二条の二にいう補助にあたることは明らかであり、また本件書記事務従事も、本来は、市遺族会がみずからの費用と労力で行うか、あるいは対価を支払うべき労務を無償で提供されたのであるから、その実質は補助にあたると解される。

2  ところで、地方自治法二三二条の二の公益上の必要性の判断にあたっては、その補助金支出の趣旨・目的、補助金を交付される団体の目的・活動状況、右団体の過去における公益活動の実績・公益活動計画と公益外活動の程度等を検討し、当該補助金が、その団体の公益活動にどの程度役立つか、団体の公益外活動に流れるおそれがないか等諸般の利害得失を比較総合して判断するのが相当であると解されるところ、前記三の2、3の認定事実に照らせば、市遺族会及びそれがその組織の一部となっている日本遺族会の諸活動について公益性が問題になるのは、もっぱら、国・地方公共団体の遺族援護行政の補完的側面あるいは遺族の処遇改善・福祉向上に向けての活動であると考えられるので、以下、まずこれら遺族援護行政あるいは遺族の処遇改善等の活動が公益性を有するといえるか否かについて検討する。

戦後における遺族らの置かれた状況及びその中で日本遺族会が組織、結成された状況並びにその後の日本遺族会の活動、果たした役割は、前記三の2認定のとおりであり、また、乙第八〇号証(厚生省援護局編「引揚げと援護三十年の歩み」、以下「歩み」という。)及び第九八号証(日本遺族会十五年史)によれば、右公益性判断の重要な手掛かりとなると考えられる戦後の国の遺族援護行政の概観として、以下の事実が認められる。

(一) 経済的面での遺族援護行政

(1) 遺族援護法の成立、提案理由等

① 昭和二七年、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「遺族援護法」という。)が成立した。その提案理由(同年の第一三回国会)は、以下のようなものである。

「これらの戦傷病者、戦没者は、過去における戦争において国に殉じたものでありまして、これらの者を国が手厚く処遇するのは、元来、国としての当然の責務であります。敗戦によるやむを得ざる事情に基づき、国が当然になすべき義務を果たしえなかったのは、誠に遺憾の極みと申さねばなりません。しかしながら、すでに平和条約は締結せられ、その効力発生の時期は、目しょうの間にせまっているのであります。この講和独立の機会に際しまして、これらの戦傷病者、戦没者遺族等に対し、国家補償の精神に立脚して、これらの者を援護することは、平和国家建設の途にあるわが国といたしまして、最も緊要事であることはいうをまたないのであります。これが、この法律により、戦傷病者、戦没者遺族等の援護を行うという根本的趣旨であります。」

② 遺族援護法は、社会保障の色彩を加味した年金案として提出されたが、国会で種々修正、審議された結果、最終的に、社会保障的な面を持つとはいっても、困窮等の程度にかかわらず、またその調査も行わず一律に同額を支給するという、むしろ弔慰金的なものとして成立した。なお、右法律は、その一条で、「この法律は、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基き、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする。」とし、また、右軍人とは、「恩給法の特例に関する件(昭和二一年勅令第六八号)一条に規定する軍人及び準軍人並びに内閣総理大臣の定める者以外のもとの陸軍又は海軍部内の公務員又は公務員に準ずべき者」をいい、軍属とは、「もとの陸軍又は海軍部内の有給の嘱託員、雇員、よう員、工員又は鉱員」をいう(同法二条一項)として、法律の趣旨が、国家補償の精神、すなわち国が使用者としての立場から、公務たる軍事関連業務に起因する災害についての救済措置を講ずることにあることを明らかにしている。

③ もっとも、日本遺族会等では、当初から、旧軍人恩給の実質的復活を遺族の処遇改善運動の主眼に置いていたことから、右法律は、あくまで差し当たりの措置としてしか受け止めておらず、引き続き右公務扶助料の支給を求める運動を続け、これらの運動の結果、昭和二八年には、恩給法の一部改正法が成立し、現在、遺族援護法の対象からは、恩給による受給資格者、すなわち旧軍人の大部分が除かれるに至っている。また、昭和三一年、遺族援護法及び恩給法を補完するものとして「旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律」が制定されており、その後、右遺族援護法は、成立以来昭和五三年ころまで、三十数次に亙って改正が加えられ、年金等の増額、支給対象の拡大、公務傷病範囲の拡大、遺族範囲の拡大等援護措置の拡大強化がはかられている。

(2) 各種特別給付金の制度及びその立法理由

右遺族援護法のほかの戦没者遺族に対する経済的援助としては以下のような制度がある。

① 戦没者等の妻に対する特別給付金支給法(昭和三八年法律第六一号)

② 戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法(昭和四〇年法律第一〇〇号)

③ 戦没者の父母等に対する特別給付金支給法(昭和四二年法律第五七号)

なお、右各法律にいう戦没者の範囲は、遺族援護法の対象者の拡大とともに逐次拡大されているが、基本的には、旧軍人・軍属ないしそれに準ずるものがその対象であることには変わりがない。

(3) そのほか、戦傷病者に対しては、昭和三八年に戦傷病者特別援護法が、また、昭和四一年には、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法(法律第一〇九号)が、成立しているが、それについては、財団法人日本傷痍軍人会の強い働きかけがあったようである。なお、右にいう戦傷病者の範囲も基本的に遺族援護法のそれと同様である。

(二) 経済面以外での遺族援護行政

(1) 戦没者遺骨の収集

第二次世界大戦による内外の戦没者は、軍人・軍属約二三〇万名、外地で非命に倒れた一般邦人約三〇万名、戦災死没者約五〇万名、あわせて約三一〇万名にのぼり、うち、日本本土以外の各戦域における戦没者は、約二四〇万名であり、これら海外戦没者の遺骨は、一部の持ち帰られたもの以外は、海外の旧戦域に放置されていたことから、昭和二七年の国会でこの問題が取り上げられ、同年六月「海外地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還等に関する決議」が衆議院において採択され、また、それに先立つ同年一月から四月までの遺骨調査団の調査結果に基づき、同年一〇月二三日、「米国管理地域における戦没者の遺骨の送還、慰霊に関する件」の閣議了解が行われ、これに基づき海外戦没者の遺骨を収集し、現地において慰霊を行ない、さらに小規模の慰霊碑を建立することを決め、相手国の承認を得次第、政府派遣団を海外に派遣することになった。このような経過で、以後、昭和二八年から昭和五〇年まで、第一次から第三次まで、遺骨収集が行われ、昭和五一年度以降は、それまでの計画期間中に相手国の事情から遺骨収集が不許可となった地区等について、補完的遺骨収集を継続して実施することになった。

(2) 戦跡慰霊巡拝

第三次計画の終了による計画的遺骨収集の終了に伴い、遺骨収集の概ね終了した地域及び遺骨収集が望めない海上における戦没者を対象として、昭和五一年度から、新たに計画的に、遺族を主体とした戦跡慰霊巡拝が行われることになった。

(3) 戦没者慰霊碑の建設

前記(1)のように、遺骨収集に際しては、小規模の慰霊碑を建立することとされたが、昭和二九年に厚生省の定めた「海外戦没者遺骨の収集等に関する実施要綱」でも、現地における遺骨収集に際して、建碑及び追悼の式を行うものとされた。

その後、昭和四六年三月に硫黄島に「硫黄島戦没者の碑」が建立され、遺族ら、国会代表、政府関係者らが出席して、竣工並びに追悼式が行われたのを皮切りに、遺族の心情及び国民感情を十分考慮して海外の主要戦域に逐次慰霊碑を建立することとし、昭和四六年七月に慰霊碑建設要領が策定され、右要領に基づき、その後、昭和四八年三月、「比島戦没者の碑」が、フィリピン共和国ラグナ州に、昭和四九年三月、「中部太平洋戦没者の碑」が、サイパン島に、それぞれ建設され、その竣工にあたっても、遺族代表ら、日本国政府関係者らが出席のうえ、竣工式及び追悼式が行われている。

(4) 全国戦没者追悼式

政府は、昭和二七年、わが国が独立を回復するとともに、他のあらゆる行事に優先する形で、平和条約発効祝賀式典の前日である同年五月二日、東京新宿御苑において、天皇皇后両陛下が臨場し、総理大臣らが参列して、遺族代表らを招いて、全国戦没者追悼式を実施した。なお、右追悼式は、宗教的儀式を伴わないものとするため、中央に戦没者の霊を象徴する白木の追悼の標柱を立て、黙祷、奏楽、追悼の辞、献花を行う形式がとられ、これが、その後、この種の政府行事の式典の典型となった。その後、しばらくは、追悼式は挙行されていなかったが、昭和二八年の旧軍人恩給の復活等、経済面の遺族援護措置は次第に充実してきたが、反面、精神的慰藉の援護に欠けているという意見が国会方面から起こり、また、国家的行事として、全戦没者の追悼行事を行いたいという要望が、各方面から出てきたため、政府は、昭和三八年五月一四日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」で、式典実施を決め、同年八月一五日、日比谷公会堂で、政府主催で、前記昭和二七年の追悼式の例にならって全国戦没者追悼式を挙行し、以後、同様の閣議決定に基づき、毎年八月一五日、全国戦没者追悼式を挙行している。右式典の戦没者の範囲は、支那事変以後の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命に倒れた者、内地における戦災死没者等をも含む。)とされており、また、その場所は、昭和三九年においては、遺族等の強い要望があったことから、靖国神社境内地で挙行されたが、その後、昭和四〇年からは、毎年、日本武道館で行われている。なお、式典の中心となる中央の式壇には、中央に戦没者の霊を象徴する白木の追悼の標柱が立てられ、その文字は、当初は、「全国戦没者追悼之標」と記されていたが、その後遺族会等の強い要望があって、昭和五〇年の追悼式からは、「全国戦没者之霊」と改められた。

(5) 千鳥が淵戦没者墓苑の建設及びその前での拝礼式

① 前記のように政府は、昭和二八年当初から、海外の各主要戦域に残されている戦没者の遺骨を収集するため、戦没者遺骨収集団を海外に派遣したが、故国に迎えたこれら遺骨のうち、氏名が判明しないため、遺族に引き渡すことのできない遺骨等をどうするかについて、種々の論議があり、同年一二月の閣議において、国が建立する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において、これを維持管理する方針が決定され、以後、墓の敷地、規模、構造等について、検討の結果、現在の東京都千代田区三番町に、墓苑を建設することとなり、昭和三四年三月、竣工し、同月の閣議決定で、「千鳥が淵戦没者墓苑」との呼称が正式決定した。なお、右墓苑は、諸外国における無名戦士の墓にあたるものと考えられたことから、その建設にあたっては、アメリカ合衆国ワシントン郊外所在のアーリントン軍人墓地内の無名戦士の墓、イギリスのウエストミンスターアベニューの無名戦士の墓等の実情、特色の調査を国会図書館に依頼している。

② 千鳥が淵戦没者墓苑の竣工にあたっては、遺族代表、政務関係者らが出席、参列のうえ、昭和三四年三月二八日、竣工並びに追悼式が挙行された。その後、海外から持ち帰られた遺骨で、遺族に引き渡すことができず、厚生省に仮安置されていた遺骨を墓苑に収納する必要があったため、戦争終結後、二〇周年にあたる昭和四〇年三月、厚生省主催による納骨式と、天皇皇后両陛下が臨場して、同墓苑の拝礼式が行われ、以来、毎年春に、皇族の臨席のうえ、政府主催で、千鳥が淵戦没者墓苑拝礼式が実施されている。右式典の内容は、厚生政務次官の開式の辞に始まり、国歌斉唱のあと厚生大臣の式辞及び納骨があり、次いで皇族の拝礼が行われ、警視庁音楽隊による奏楽のあと、内閣総理大臣、遺族代表等来賓が墓前に花を献げ、最後に厚生事務次官の閉式の辞をもって式典は終了する。この式典には、東京都を初め、近県の遺族代表と来賓ら約五〇〇名が参列して行われていたが、昭和四八年から戦没者遺骨収集は、日本遺族会や戦友会等の民間団体にも協力を要請して実施したため、昭和五一年ころからは、これら遺骨収集協力者も多数参列することとなった。

(三) 国の日本遺族会に対する処遇等

旧軍人会館であった九段会館が、昭和二八年八月に、日本遺族会に無償貸付されたこと及びそれについては、「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」が制定されたこと等は、前記三の2の(一)の(3)認定のとおりであるが、右法律の趣旨は、その一条にみられるように、日本遺族会が、戦没者遺族の福祉を目的とする事業を行う団体であるという面に着目し、その事業に対し、またそのような事業に限って国として援助するため同会館を無償貸与するというものである。

3 右2認定の諸事実に照らせば、旧軍人・軍属等の戦傷病者・戦没者遺族らに対する各種給付金の支給等の経済的側面からの遺族援護業務が、国の重要な施策として行われてきたこと、その背景には、右戦傷病者・戦没者は、過去における戦争において、国に殉じたものであり、これらの者及びその遺族らを国が手厚く処遇するのは、国としての当然の責務であり、また、国家補償の精神にも沿うとの考えがあったこと、さらに、昭和二八年ころ以降、海外での遺骨収集と慰霊碑の建設、戦跡巡拝及び全国戦没者追悼式の挙行、千鳥が淵戦没者墓苑の建設とその前での拝礼式等の精神的側面からの遺族援護業務も、国家施策として推進されてきたが、その背景には、過去の戦争において、これら戦傷病者・戦没者を始めとする多くの犠牲者があったことを全国民が銘記するとともに、国としてこれら犠牲者に追悼の意を表すべきであり、それが、遺族の慰藉にもつながり、また、今後の国の平和を祈念することにもつながるという観点からなされていることが明らかであり、少なくとも国家行政の分野では、このような遺族らに対する経済的・精神的援護とそれを通じての福祉の増進の必要性ということが、広く承認されていたことが明らかである。

4 もとより、地方自治法二三二条の二の公益性は、単に国家施策として行われているというだけで、無条件にそれが認められるものでないことはいうまでもないが、しかし、これら遺族援護行政の背後にある、過去の戦争において公務として軍事関連業務に従事し、その結果、死亡し、あるいは身体障害、疾病の身となった犠牲者ら及びその遺族に対し、応分の援護をなすべきことが国の責務であり、国家補償の精神にも沿うものであるとする考えは、憲法の理念に照らしても、十分に尊重されるべきものと考えられ、結局、遺族の経済的・精神的援護とそれを通じての遺族らの福祉の増進ということは、国・地方公共団体の本来的に果たすべき責務であり、公益性を有する事業であるといわざるを得ず、それを補完する役割が公益性を持つことは明らかである。また、そのような遺族らが、日本遺族会及びその支部たる各遺族会のような互助的な組織を結成し、それを通じて遺族らの処遇の改善と福祉の向上を図る活動も、本来、国・地方公共団体によって、社会福祉、社会保障の充実が図られるべき人々が、自主的な活動を通じて、その福祉の増進を図るという面においては、単に遺族らの私的な利益を図る活動というにとどまらず、公益的側面をも持つことは否定できないのであって、国による、日本遺族会に対する九段会館の無償貸付も、このような考慮の下になされたものと考えられる。

なお、戦争犠牲者は、これら旧軍人・軍属等の戦傷病者・戦没者及びその遺族らに尽きるものではなく、今次の大戦においては、戦争被災者始め数多くの戦争犠牲者が出たことは公知の事実であるが、右戦没者遺族らもむろん戦争犠牲者の一員であるうえ、その多くは生命の危険にさらされながら苛烈な環境下において戦いをなさざるを得ない立場に置かれたものであることから、国家による補償の程度に戦没者遺族らと他の戦争被災者らとの間に差異があっても必ずしも不合理とはいえず、それが立法政策上許容される裁量の範囲を逸脱しているともいいがたいことなどを考慮すれば、そのことのゆえに、これらの遺族に対する各種援護措置及びこれら遺族の行うその補完的活動とそれらを通じての遺族らの福祉の増進ということが公益性を有しないということはできないし、また、前記認定のように、日本遺族会に加入している遺族は、旧軍人・軍属等の遺族等、その会員たる資格を有する者の半分位に過ぎないものではあるけれども、そのこれまでの活動及び現在の活動は、遺族の福祉増進ことに経済的処遇の改善といった面においては、必ずしも同会に所属する遺族のみのためになされているわけではなく、このような意味での全遺族のためになされているのであるから、この点も、日本遺族会及びその支部の各遺族会の行う遺族援護行政の補完的活動の公益性を否定する理由にはならないと考えられる。

5 そこで、以下、これら遺族援護一般の公益性を前提として、前記2の基準に従い、本件各行為が公益上の必要性を有するか否かについて検討する。

(一)  本件補助金支出、本件書記事務従事の趣旨・目的

乙第二六号証(原本)及び証人井上隆志の証言によれば、市遺族会への本件補助金支出及び本件書記事務従事の趣旨・目的は、もっぱら市遺族会の会員たる遺族らの福祉の増進と、市遺族会が遺族援護行政の補完的役割を果たしているという見地からなされていると認められるし、また、右各援助に伴い、不可分的に宗教にかかわる活動に対する援助の効果が生ずるとしても、その活動は前記三の9で述べたように、市遺族会が戦没者の遺族の集合体であることからおのずとその事業に含まれる追悼、慰霊等遺族の精神的慰藉のための活動の一環としての行事にすぎず、特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大といった宗教的活動自体を目的とするものではないことが明らかである。

(二)  市遺族会の目的・活動状況等

前記認定のとおり、市遺族会の目的は、「会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資する。」ことにあると認められ、また、その活動状況のまとめは、前記三の7の(三)の(1)のとおりであって、戦没者の追悼、慰霊事業と、会員相互の親睦事業がかなりの比重を占めているとはいえ、これらも遺族らの精神的慰藉による援護につながるという意味では、必ずしも公益的側面を有しないとはいえないし、遺族援護関係法律の改正点等の周知、徹底、戦跡巡拝、遺骨収集の参加者とりまとめ等、国、大阪府との関係における遺族援護行政の補完にかかわる事業も会の活動内容に含まれていること、さらに市遺族会もその組織の一部を構成している日本遺族会の目的・活動状況は、前記三の2のとおりであり、同会は、英霊の顕彰事業にかなりの力点を置いているとはいえ、それと並んで、遺族の処遇改善事業、遺族の生活相談事業、遺児の育成、指導等の事業をその事業目的としていること、また、その現実の活動も、英霊顕彰事業とともに、遺族の処遇改善・福祉増進に向けての諸活動すなわち各種立法及び行政措置の実現に向けての働きかけ等を行っているほか、右英霊顕彰事業の内容としても、国の行う外地遺骨収集に対する協力活動や、同会の主催する戦跡巡拝等もそれに含まれているうえ、その靖国神社等に関する宗教にかかわる活動についても、その国家護持運動等については、本来的には、それがもっぱら宗教的活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派に対する援助、助長ないしその普及の趣旨でなされているわけではなく、もっぱらそれが遺族らの精神的慰藉につながるという見地からなされていることが認められ、これらを全体としてみた場合、遺族援護行政の補完と遺族の経済的・精神的な福祉増進を図る事業活動がその主体になっているといわざるをえない。

(三)  市遺族会の過去における公益活動の実績、公益活動計画

市遺族会それ自体としての過去における公益活動としては、同会の結成以来、ほぼ前記のような遺族援護行政の補完的活動を続けてきたと認められるし、市遺族会もその組織の一部となっている日本遺族会の過去における事業内容等の概要は、前記三の2の(三)認定のとおりであり、戦後の物心ともに困窮した戦没者遺族等の処遇改善、福祉の向上に果たした役割は、大きなものがあったと認められる。そして、日本遺族会及び市遺族会が、現在でも、遺族援護行政の補完的役割を果たしていると認められることは右(二)のとおりであって、今後もそのような基本的な活動方針に大幅な変更があるとは考えられない。

(四)  公益活動の程度

前記のとおり、遺族の福祉増進を目指す諸活動が公益性を有するとはいっても、市遺族会の諸活動のうち、青年部による靖国神社参拝研修までもがこれにあたるとは認めがたく、また、市遺族会もその組織の一部を構成する日本遺族会の諸活動のうちにも、靖国神社国家護持あるいはその公式参拝運動のように、精神的な遺族の援護、福祉の増進につながる面のあることは否定できないにしても、そこからややはみ出ているといわざるを得ない活動もあるものの、市遺族会及び日本遺族会のそれら宗教にかかわる英霊顕彰事業も、本来的には、宗教活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派に対する援助、助長ないしはその普及を目的としているわけではなく、むしろ戦没者の追悼、慰霊行事の一環としての宗教とのかかわり合いであること等を考慮すれば、これらを全体としてみた場合、市遺族会の諸活動において、必ずしも公益外活動が多くの比重を占めているとはいいがたい。

(五)(1)  なお、原告らは、日本遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギーと国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とするばかりでなく、英霊に対する応答・誓いという形で、将来の戦争における戦没者の顕彰、慰霊をも視野に入れ、防衛意識、国家意識の向上を説き、軍備強化を推進するなど、憲法の根本規範たる国民主権、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与する団体であるところ、市遺族会は、そのような日本遺族会の一地方支部であり、また、それ自体においても、軍国主義と主権在君の思想を表現する本件忠魂碑を祭儀の中心とし、これを礼拝し、その碑前で慰霊祭を挙行するなど、憲法理念に反する活動を重ねてきたものであり、反憲法的団体である旨主張する。

(2)  しかしながら、靖国神社が、戦前において、制度的・実質的国家神道の中心的施設であり、その面で、超国家主義及び軍国主義と結び付く面のあったことはたしかであるが、しかし、戦争の終結と神道指令、そして天皇の人間宣言に伴い、制度的国家神道が解体し、実質的国家神道も、消滅した今、靖国神社の性格としても実質的国家神道に基づく面は、一部変容がみられるのではないかと考えられるが、それはさておいても、少なくとも、今日、日本遺族会とその各地方支部に結集している遺族らを含む一般人の意識に、超国家主義・軍国主義の基盤となった実質的国家神道の宗教思想が残存し、右遺族らが、そのゆえに、靖国神社を信奉しているとは認めがたいし、また、本件忠魂碑の性格にも、戦後、同様の変化があったとみざるを得ないことは前記のとおりであり、これらの諸事実に照らせば、結局、日本遺族会及び市遺族会が現在も靖国神社とのかかわりを持ち、また市遺族会が本件忠魂碑を維持、管理し、碑前慰霊祭を行っていることが、実質的国家神道を受け継ぐものであり、超国家主義と軍国主義に結び付く活動であるとはいえないことは明らかであって、日本遺族会及びその地方支部たる市遺族会が、原告ら主張のような反憲法的性格、したがって反公益的性格を有する団体であるとは認めがたい。

(3)  もっとも、〈証拠〉によれば、原告ら主張のように、日本遺族会及びそれとほぼ一体的な組織である「英霊にこたえる会」は、英霊に対する誓いという形で、将来の世代による殉国の精神を継承させ、また、それを通じ、国家意識、防衛意識の向上ということを意図しているように窺われる点もないでもないが、それがただちに国家の自衛、防衛の必要性及び愛国心の涵養といった一般論を超えて軍国主義・超国家主義に結び付くとまでいえるか否かは疑問であるうえ、それらが日本遺族会の現実的な運動、事業内容の中で相当程度の割合を占めているとも認めがたいのであって、この点も日本遺族会が、基本的に、遺族らの精神的援護につながる面のある英霊の顕彰活動と、遺族らの福祉の増進を目的とする団体であるとの前記認定を覆えすに足るものではない。

6 右5に述べたような、本件補助金支出及び本件書記事務従事の趣旨・目的、市遺族会の目的・活動状況等、市遺族会の過去における公益活動の実績と公益活動計画、公益外活動の程度等を総合考慮し、また、市遺族会及びそれがその組織の一部となっている日本遺族会が、原告ら主張のような反憲法的・反公益的性格を有する活動を行っている団体とはいえないことをも考えれば、市遺族会に対する本件補助金支出及び本件書記事務従事は、公益上の必要性に基づくものと認めるのが相当である。

したがって、原告らの右主張は理由がない。

六その他の違法事由について

1  地方公務員法三五条違反について

原告らは、本件書記事務従事は、地方公共団体の処理すべき事務ではなく、また法律にこのような便宜供与を許容する規定もないのであるから、市の職員の職務として、規則上の職制又は職務命令により割り当てることもできないものであり、それをなさしめる職務命令等は、地方公務員法三五条の職務専念義務に違反する違法な行為である旨主張する。

しかし、前記五に述べたとおり、本件書記事務従事が地方自治法二三二条の二に基づく公益上の必要ある補助と認められる以上、市がその事務を行うことも地方公共団体の処理すべき事務として適法であることはいうまでもなく、とすれば、市がその職員をして右事務に従事させたことが違法となるいわれはないから、この点に関する原告らの主張は理由がない。

2  市補助金交付規則違反について

原告らは、本件補助金交付手続は、市補助金交付規則に違反する旨主張する。

しかしながら、前記二の3のとおり、本件補助金をめぐる法律関係については、その形式的・手続的側面(本件補助金交付)ではなく、その実質的側面(本件補助金支出)に着目して判断すべきであると考えられるのであり、この場合、前記四の1のとおり、市から市社会福祉協議会への本件補助金交付の手続的瑕疵は、市から市遺族会への本件補助金支出の適法性に影響を及ぼすものではないし、本件補助金支出について、地方自治法二三二条の二のほか、さらに個別の法律あるいは条例による授権あるいは手続的規制が憲法上あるいは法律上必要であるとは解しがたいから、本件補助金を市から直接市遺族会に交付するについて、直接には、市補助金交付規則の手続に従わなかったからといっても、本件補助金支出が前記法条に定める補助の実体的要件に適合してなされたものであるうえ、前記二の1の事実によれば、市は、市補助金の市社会福祉協議会への交付にあたっては、市補助金交付規則の定めに従い、右補助金の使途、配分先の団体、その配分の金額、割合等を事前に審査したうえでこれを支出していたのであって、補助金に係る予算の適正な執行に欠ける点はなかったと認められるし、原告ら主張の右規則違反の点は、本件補助金支出の適法性及び効力に影響を及ぼす手続上の瑕疵とまでいうことはできないと解されるから、原告らのこの点についての主張は理由がない。

3  本件補助金使用の違法について

原告らは、本件補助金は、宗教活動の違法な使途に使われ、あるいは本来補助の必要性を欠くにもかかわらず支出された旨主張している。

しかしながら、補助金が、違法に使用され、あるいは結果的にみて補助の必要性がないことが明らかになったからといって、当然にその交付決定までが違法になるものでなく、それが違法であるというためには、交付者において、当該補助金が違法な使途に使われあるいは補助が不要であることを知りながら支出することが必要であることはいうまでもないが、前記五で述べたように、本件補助金支出は、地方自治法二三二条の二に基づく適法な補助であるうえ、同五の5の(一)認定のように、その交付の目的は、もっぱら市遺族会の会員たる遺族らの福祉の増進と市遺族会が遺族援護行政の補完的役割を果たしているという点に着目し、そのような活動を援助する趣旨で支出されていると認められるのであるから、仮に本件補助金の一部が右補助の趣旨に反する使途に用いられ、あるいは結果的に不要であったからといって、右補助金交付決定自体が直ちに違法になるとは解しがたい。

なお、原告らは、被告は、本件補助金の違法な使用を原因として、市補助金交付規則一五条、一六条に基づき、本件補助金の支出決定を取消すべきであった旨主張するが、前記のように、市遺族会の事業活動のうちには、本件補助金が交付された昭和五一年度についても、たしかに宗教にかかわる事業が含まれていたことは否定できないにしても、それは、特定の宗教、宗派の教義、信仰を普及、拡大することを目的とする活動ではなく、戦争で死亡した親子、兄弟等肉親の追悼、慰霊行事等を実施することによって遺族の精神的慰藉を図るという目的に出たものであって、遺族の福祉向上という補助金交付の趣旨に反する活動とまでいうことはできず、このような見地から、市遺族会の昭和五一年度の活動状況と歳出状況を検討しても、本件補助金が、全体としてみて、補助の趣旨に反した用途に使用されたといえないことは明らかであるから、この点に関する原告らの主張も理由がない。

七以上の次第で、本件補助金支出あるいは本件補助金交付及び本件書記事務従事が、憲法八九条前段、同法二〇条一項後段、同条三項、同法八九条後段、社会福祉事業法五六条一項、地方自治法二三二条の二、地方公務員法三五条、市補助金交付規則等に違反するとの原告らの主張は、理由がない。

第三よって、原告村上淑子、同中川健二の訴えは原告適格を欠くからこれを却下し、原告神坂玲子、同小西ちよ、同角南喜美代、同古川二郎、同古川佳子の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山本矩夫 裁判官及川憲夫 裁判官徳岡由美子)

別紙〈省略〉

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